論理学の本における「欠如モデル」の紹介
意外な分野の本で「欠如モデル」概念が紹介されているのを見ましたので、引用します。(強調は原文のまま)。
原発、遺伝子組み換え、医療、環境アセスメントなど科学技術の問題をめぐって、「欠如モデル」という方法がかつて優勢でした。欠如モデルとは、「素人(消費者、住民、患者など)は科学の知識が欠如していて何もわかっていないのだから、専門家が懇切丁寧に教えてやれば必ず理解してくれるはず」という見方です。専門家と素人との関係を科学知識の量といった一元的な尺度で固定し、無知ゆえに不安や反発を感じている素人に対してひたすら科学的知識の学びを要請し、専門家の見方に近づいてもらう。それで問題は解決する。欠如モデルにもとづくこうした対応法は、「パターナリズム」の一種と言えるでしょう。
しかし、科学的知識では割り切れない主観的な価値感情や、根拠はないがなんとなくいやな感じというような暗黙の経験知など、実践的な場ではさまざまな要因が考慮されるべきだとして、「対話モデル」という見方も推奨されるようになってきました。専門家と素人は、一方向的な関係にあるのではなく、それぞれの世界観を補いあって、対話を形成することで高次の理解へと進もう、というわけです。
これは、
- 作者: 三浦俊彦
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ところで、細かい話ですが、
「欠如モデル」という方法って、何だか違和感を覚える表現ですね。モデルなのだから、それは対象の捉え方のかたちであって、「方法」とするのは何か違う気がします。もちろん読み方としては、「欠如モデルという見方を前提とした方法」と補えば良い訳ですが。
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余談。
欠如モデルという言葉を使った文のいくつかを見て感じる事。主に違和感ですが。
「欠如モデル」という、対象のありようについての表現を用いて、科学者の「態度」をも一緒に論じている所、なのかなと思ったりします。モデルを表現している言葉に、態度の事も含意させているように感ずる、というか。欠如モデルと対立するような概念として「対話モデル」がある、というのもですね。欠如モデルを想定しつつ対話を重視するのも出来るのでは?と最初には思ったものです。いや、これはもちろん、字面をそのまま見た語感の話をしているのであって、術語としての定義をひとまず措いているのでありますが。