NATROM氏と化学物質過敏症

NATROM氏の化学物質過敏症に対する見解・姿勢はこちらにまとめられている⇒何を否定し、何を否定していないか
あるものについて議論している場合、言ってもいない事を前提され批判を受けたり、言った事をあたかも言っていないかのごとく扱われる時がある。それは大変に困るので、ありがちな疑問を設定し、それに答えてまとめておく。いわゆるQ&AやFAQの類のコンテンツ。
ここでリンクしたNATROM氏のページもそのような構成であり、いくつかの(恐らく、誤解されがちな)主要な論点がまとめられている。そして、こういうものを検討しておくのも、ある論者の意見をなるだけ正確に評価するのに役立つものと思われる。
そこで、リンク先でNATROM氏が挙げている項目のいくつかを採り上げ、その見解について検討する。
尚、本エントリーにおける小見出しは、リンク先のNATROM氏のページより引用する。

微量の化学物質の有害性は否定していません。

ここでは、それまでの基準よりも遥かに小さい量の物質にさらされて何らかの被害が起こる可能性、を否定していないと言っている。だから、今解っているメカニズムや研究から導かれたラインより低ければ被害は絶対に起こらないとは言っていない。
物事には個人差というものがある。つまり、どのくらいの量の物にさらされたら身体が反応するか、は個人によって異なる。そして、論理的には、その個人差をいかようにでも設定出来る。極端には、ある物質がそこに存在すれば反応するという主張すら行える。
そこで、単に論理的な可能性を考えるのでは無く、証拠に基づいた検討が必要となる。それが次の項目とリンクする。

臨床環境医が言う意味での「(多種類)化学物質過敏症」の存在は十分に科学的に証明されていないと考えています。

ここで重要なのは、科学的に証明という部分である。科学証明も、日常的に使われる語でもあり、その持つ意味合いはかなり広い。であるから、議論においては、出来るだけ用語が持つ意味について了解を取っておくのが肝要。
証明は、数学における厳密な意味での証明を思い浮かべる場合もあるだろうが、今の文脈における証明とは、むしろ実証検証とした方が伝わりやすいかも知れない*1。そしてそれは、実験や観察等によって得られたデータに基づいて、つまり経験的に得られた証拠に基づいて評価される。従って、それによって支持された(今の流れで言えば実証された)学説は、常に覆される可能性を持つ。データの採り方がおかしかったりする可能性もあるからだ。これが数学における厳密な証明とは異なった、科学の特徴だと言える。
ここで検討しているのは、その主張の性質から言って、今まで得られた知見から外れた説であるから、当然、それを支持するメカニズム、つまり仕組みは不明である。
では、メカニズムは不明であるからそこで主張される現象は無いと言えるのか、あるいはメカニズムが不明だからそれについては何も意見は言えない、となるのか。
実はそれはどちらでも無くて、科学(や医学)は、メカニズムが不明でも因果関係を検討出来る手法を発展させてきた。つまり、起こる現象起こす原因がきちんと設定出来るなら、その起こる仕組みつまりメカニズムが不明でも(これをブラックボックスと呼ぶ事も出来る)、その因果関係を推論出来る方法である。今の文脈で言えば、これまでの知見によれば反応しそうも無い微量のとある物質にさらされる事を原因と捉え、起こると主張される様々な身体的不調を結果と考えて、その因果関係を検討する、となるだろう。そこで採用される方法の一つが、いわゆる無作為化対照試験と呼ばれるものである。それは、実験協力者を、あるものを与える/与えない という条件で複数のグループに分けて比較する、という手法である。ここで重要なのが、無作為化という部分で、これは、確かめたい条件以外のものをなるだけ揃える(統制やコントロール等と言う)事で、出来る限り確かめたい要因の効果を切り分けて評価する、という考え方。
ところで、今考えているのは、これまででは考えられないくらい小さな量で身体に反応が起こるか、という事で、しかも、起こるとされている症状が、別の原因によっても起こり得る、と指摘されているものでもある。つまり、ある物質にさらされているという認識そのものが症状を呈する可能性を考える。この認識という原因を、ここでは心因と呼ぼう。
このような事情があるから、無作為化対照試験に加え、実験をする人と実験を受ける人がともに、与えた/与えられた 条件を知らないようにして、症状が起こる原因が心因であるかそうで無いかを切り分ける、というやり方が重要となってくる。このような方法を、二重盲検法(盲検を遮蔽と表現する事もある)と言う。
ここまでの説明を踏まえると、NATROM氏が言う科学的に証明とは、
メカニズムは不明でも構わないから、想定される原因と主張されている症状という結果との因果関係を、二重盲検法も含めた無作為化対照試験によって実証する事
であると解釈出来る。
尤も、これは少々単純化した見方で、本当は、倫理的等色々の理由によって(今で言えば、実験協力者が様々な症状を呈する可能性を受け容れる必要がある)、実験が行いにくい場合もあるので、観察研究も含めて多方面から検討し、因果関係を推論していく、というのが科学や医学のプロセスであると言える。また、どのような現象を主張するか、等によっても、必要とされる証拠のレベルは異なってくるだろう。化学物質過敏症について言えば、それがもし心因以外の原因、すなわち、ごく少ない量のある物質へ さらされる事である、と強く主張されているのであれば、心因であるかどうかを切り分けるやり方が選択される必要があるだろう。
また、先に、科学の理論は覆される可能性を持つのが特徴だ、と書いたけれども、かと言って、科学の知識というのは、かなりの程度しっかりしたものなので(それは、現象の予測や制御等によって確かめられてきている)、当然、新奇の主張があれば、今解っている事からも検討されるだろう。直接的な証拠は、上で書いたような方法による因果関係の評価だが、既存の理論からも、それがあり得そうかどうか、は検討される。それが、NATROM氏がありえないことではありませんが、通常の生理学的見地からは予想できないことであり、と書いている部分であると解釈出来る。

「多種類化学物質過敏症」とされている患者さんの苦痛は疑っていません。

ここは大変重要な点であって、この所について了解が取れているかどうかで、議論が建設的になるかが決まってくる、と言っても過言では無いと考える。
先に私は、ある物質にさらされると認識する事、を心因と表現した。詳しく言えば、対象の物質がそこに無いにも拘らず、そこにあるのだと考える事、である。そして、その心因によって、色々の症状が出てくる可能性がある、とする。それはつまり、心因→症状 という因果関係の可能性の主張である。であるからこれは、症状という現象あるいは結果は否定しない。
ここの所の理解についてすれ違いが起こる事がしばしばある。というのは、この種の議論においては、気のせい思い込みのような語が用いられる場合があるからだ。時にこれらの語は、とても軽い、あるいは、対象を馬鹿にしたような意味合いで解釈される事がある。そして、その言葉がどこに繋げられているかという問題がある。つまり、

  • 原因が気のせい
  • 結果が気のせい

という可能性。文脈に合わせて表現をかえると、

  • ある物質にさらされた事が原因←気のせい
  • 色々の身体的な症状という結果←気のせい

となるだろう。このどちらに言葉が繋げられているのか、という所の解釈によっても、語の受け取られ方は異なってくるだろう。
議論でよく言われるのが、化学物質過敏症を訴える人の症状自体を否定しているのでは無いという事である。そこを強調するために、気のせいと言っている訳では無いのような表現がなされる事もあるが、これは、語にどのような意味を含ませるかによる。思い込みや気のせいという言葉で、先に私が書いた心因を指す場合もあるから(「気のせい」で指しているのが症状の事で無い場合もあるから)、それを前提にすれば、症状を否定しない、かつ気のせいという表現を使う、のは矛盾無く成り立つ。
NATROM氏は、このような事情を踏まえて説明を書いたと考えられる。
もちろん、上のような言葉の問題というのは、
ある微量な物質に さらされる事が原因と確信する人
には通用しない。そういう人にとっては、原因と結果のどちらとも、否定される事を許容出来ないからである。

現状を肯定しているわけではありません。

ここでNATROM氏は明確に、症状を訴える人の症状そのものは、有るものと前提している。NATROM氏が言っているのは、主張される症状という結果があるとして、それに至る原因は多種の可能性がある、という事だろう。
だから、充分に証拠が揃っていないままに因果関係を設定し、それによって診断をつけてしまう事を批判している。多種の原因が考えられるのに、必要以上に原因(の可能性)を絞り込んでしまっては、本来の原因に対して的外れな対処が行われるおそれがある。
これが、NATROM氏という医療者が、臨床環境医学に携わる医療者を批判的に検討する理由だと推察出来る。

臨床環境医学とリンクしているさまざまな主張については、きわめて懐疑的です。

現代医学というのは、それまでに得られた科学の知見をベースにしている。それは、物理学や化学、生理学や解剖学といった知識の体系である。であるから、発言や主張がそれらの体系に則ってなされているか、という事は、その人の意見を総合的に評価する手がかりであると看做せる。そういう意味では、一般論として、著作や講演等で、当時のスタンダードから大きく離れた主張を支持している、という事があるとすれば、それはその対象の認識総体(ここでは医学とそれに関わる自然科学諸分野にまつわる認識)を懐疑的に評価しておく、という理由になる。

臨床環境医学によって治った人がいることは否定していません。しかし、体験談のみでは、ある特定の治療法に効果があるという証明にはなりません。

雨乞い三た論法というものがある。これは、

  • 雨乞いをした
  • 雨が降った

という事実から、

  • 雨乞いをしたので雨が降った

と結論するようなものの考え方で、これを薬の効き目等に適用して、

  • ある薬を使った
  • 病気が治った

という事実から、

  • 薬を使ったので病気が治った

と短絡するような論法を指した用語である*2
人間の身体は、色々な病気になったり症状が出たりしても、勝手に治ってしまう事がある。だから、何か治療法を試したという事と、治るという事が、たまたま時間的に一致する(時間的に近い)場合がある。そうすると、時間的に接近していた、意識されていた治療法が、病気を治した原因であると錯誤される。実は何もしなくても治っていたかも知れないし、他の生活習慣等の変化が原因であったかも知れないのに、である。
だから、ある治療法なりの効果を確かめるのは、何かを行ったら良くなった、という事実だけでは足りなくて、先に説明したような、よくデザインされた研究法による検討(その1つが、二重盲検法を用いた無作為化対照試験)が必要とされる。NATROM氏は、そのような、主張される治療法についての検討が充分になされてはいない、と指摘しているのである。そして、原理は不明であっても、と書かれているのもポイントであると言える。
ところで、NATROM氏は、臨床環境医学によって治った人がいることは否定していません。と書いている。ここは、表現を変更したら理解を得やすい(誤解されにくい)のかも知れないとも感ずる。

科学がすべてだとは言っていません。

本エントリーのまとめも兼ねて。
科学の方法は、観察や実験から得られるデータによって理論を構築していく営みである。そして、常に理論は覆される可能性を持ち、新しく得られた証拠によって、既存の理論がより精密になったりもする。科学は、色々な現象を予測したり制御したりしてきた。それは科学の強力な特徴であるが、まだ解っていない事が沢山あるのを科学自体が認めている。これは科学の限界と言える(まだ解らない事があるから解ろうとする、のは知的営為を進める原動力でもあろう)。ある個人が科学の知識をどう捉え、どのように用いていくか、それは自由である。標準の医学医療を信頼して診断や治療を受けても、他の新奇なものに身を委ねても、基本的には他者は口出し出来ない(もちろん、その人との関係の近さにもよるだろうが)。
けれども、現在得られている知見にそぐわない事を主張する場合には、それに見合った証拠が求められるし(質の良いものであれば知見として認められ、標準的な知識に組み込まれるだろう)、証拠が無いにも拘らず有るかのように言ったりすれば、それは批判されてしかるべきだろう。それが、診断や治療を行う事が社会的に認められた専門家であれば尚更である。患者が方法を選択するのは自由だけれども、それは、適切な情報提供という前提があってこそ、なのだろう。

*1:検証は、物事を確かめる営みそのものを指す場合もあるだろう

*2:参考文献:薬効評価の三「た」論法再訪−EBMとbest case projectの時代を背景に【PDF】