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科学である事と真実である事。「その時点」での評価

ニセ科学批判する人って、科学の限界の境界から外側を、全部デマとのたまうのだけど。研究が進んで、デマとされたものが科学的に証明されたとしても、特に前言を取り消すでもなく平然としているあの厚顔さは何なんだろう。
http://twitter.com/ufg2011/status/462534096434896896

厚顔というのは、対象に関する態度への感想等も含んだ、評価の問題ですから、それが具体的にどんなものなのか、はここではひとまず措いておきます。今は、

デマとされたものが科学的に証明されたとしても、特に前言を取り消すでもなく

この部分について。
引用部のように書いているという事は、発言者のufg2011氏は、
デマとされたものが科学的に証明されたら、前言を取り消すべきである
と主張なさっていると解釈出来ます。であるからこそ、それをせず平然でいる事を厚顔と表現しているのでしょう。
ここに誤解があります。と言うのは、その考え方は、ある説なり主張なりの評価を、事実であるかという基準で行っているからです。
しかし、ニセ科学であるかどうかの評価は、単にその説が現象や理論として事実であるかという事では無く、
その時点で科学の知識と認められているか
に照らして行われます。ですから、たとえば、A なる現象が存在するとか、甲 なる理論が成り立つという説・主張があった場合、それをニセ科学だと評価する事は、

  • A なる現象は存在しない
  • 甲 なる理論は成り立たない

と主張しているのでは無い訳です。科学というのは、制度手続きも含んだ社会的な営みでもあり、科学的な知識とは、
その時において、科学の方法と手続きに則って標準と認められた知識
だと表現出来ます。従って、ある説をニセ科学と看做すのは、
少なくともその時点では、科学の方法と手続きによって認められた知識とは言えない
と評価しているのだと言えます。そうすると、デマとされたものが科学的に証明されたとしても、は、
それまでに、科学の方法と手続きに則って標準と認められていなかった知識

科学の方法と手続きに則って標準と認められた
という事を意味するのです。つまり、科学(的)である / 科学(的)で無いとは、正しい / 正しく無いと一致するのではありません。奇異な表現かも知れませんが、
正しいが科学では無い
場合もある、という言い方も可能です。
たとえば、ある難病に関して、それを治す特効薬や治療法が存在する、と主張したとします。もしそれが、その時点において医学的に認められた事で無いのなら、少なくとも科学(的)では無いと評されます。
しかし、その後数年なり数十年なり経って、実際に、当該の病気を治す薬や方法が開発あるいは発見されたとしましょう。その時には、別に、以前において下した、科学(的)では無い、という評価を覆す必要はありません。何故ならば、その時点の評価は、そんな薬や治療法は存在し得ないというものでは無かったからです。
もう一つの例として、血液型と性格の関連が強い、という説を考えましょう。
これは関連の話ですから、その程度は決まっています(時間の流れによる変化はあるでしょうが)。従って、関連の大きさを定めて主張すれば、それが正しいかどうかも決まります。で、実際には、血液型と性格の関連は強い、という事が成り立っているとしましょう。そうすれば、誰かによる、血液型と性格の関連は強いという主張は正しいと言えます。
しかし、その時点で、血液型と性格に強い関連がある事が、心理学等の手法によって確かめられていないとするならば、それは科学(的)では無いと言えます。だから結局、性格と血液型の関連は強いという説は、その時には正しいが科学(的)では無いと評価出来る、となるでしょう。
ちなみに、性格と血液型との関連については、それは強いものでは無い(予測に使えるようなものは無いであろう)、というのは既に、心理学の研究によって判っています。
以上が、基本的な、前提の話です。もちろん、論者によっては、ニセ科学やデマという言葉で、起こらないとか無いといった意味を指す場合もあるでしょう。その場合には、認識が不足しているとして批判すれば良いと思います。ですが、科学では無いという評価が即、事実では無い、というのと直結しない事は、押さえておいて良いでしょう。
ところで、

ニセ科学批判する人って、科学の限界の境界から外側を、全部デマとのたまう

との事ですが、具体的に誰であり、どんなのたまい方なのでしょうね。少なくとも私は、(対象の集合の要素であるにも拘らず)それには全く当てはまりません。と言うか、限界の外側にあるものを全部デマと評価するという事の意味がよく解りませんし、そもそも、ニセ科学と看做す事とデマと看做す事とは同じでは無いように思います(このエントリーでは流れと言葉遣いに乗っかって文を書いていますけれど)。