過剰診断の説明

いくつかのパターン

用語のみ書く

がん検診では、過剰診断という害が起こる可能性があります。

意味内容のみ書く

がん検診では、症状を起こしたり、それによって死ぬ事の無いものまで見つけてしまう可能性があります。

意味内容と用語を両方書く

がん検診では、症状を起こしたり、それによって死ぬ事の無いものまで見つけてしまう可能性があります。これを過剰診断と言います。

書きたく無い

過剰診断の議論をよく知っている人は、いかにややこしい用語であるかを認識しています。誤陽性や誤診と混同される事であったり、正確な意味の共有そっちのけで、その語を使って罵り合っているのを見たり、などです。

その前提があれば、過剰診断なる語そのものを避ける方針にしたい事もあるでしょう。よく解ります。あるいは、そういう現象が起きていないという信念があって、その現象が起きていると思わせたくないから使いたく無い、のような場合もありましょう。後者には解りやすい下心があります。

説明しない事と、文字列を表記しない事は違う

動機は様々でも、過剰診断なる語を書きたくない、という志向は解ります。色のついた言葉ですからね。

で、結果として、その語を記さない、つまり過剰診断という文字列を書かないという選択をするとします。

けれどそれは、過剰診断について説明しない事、言及しない事とは違います。

いま言っている説明というのは、語が持つ意味合いと、それによる影響等を知らしめる事ですからね。その観点から言えば、過剰診断を説明するとは、症状や死亡の原因にならない疾病を発見するという現象および、それが身体的・心理的・経済的等に与えるインパクトを教える事なのであって、過剰診断なる語そのものを印象づける事ではありません。極端に言えば、意味合いをちゃんと知ってもらえるのなら、語形など何でも良いのです。

色のついた過剰診断の語を使うくらいなら、それを表記せずに、意味のみ説明したほうが、理解が得られる可能性もあります。シールをぺたぺた貼り付けるがごとく、過剰診断過剰診断と敢えて書く必要は、別にありません。もちろんこれは、結果どうなるか、であって、どういうつもりか(どんな下心があるか)とはまた別です。

我々は過剰診断を説明している、と宣言した人の文書なりに、過剰診断なる文字列の表記が無いとしても、その人は過剰診断を説明していない、とすぐにはなりません。症状や死亡の原因にならない疾病を見つける場合がある、と書いてあれば、それはまさに、過剰診断概念の説明なのですから。

過剰診断と書いてあるか、そう言っているか。それ自体は問題ではありません。強く関心を持つ語形や文字列に拘泥すると、そんな当然の事も解らなくなるのかも知れません。

私の場合は、過剰診断の代わりに違う用語を使う方向を選びました。敢えて見聞きし慣れない語を使う事で、意味と同時に考えさせるという手法です。

たとえば、私が、過剰診断と書かずに余剰発見の表現のみ用いた説明文を書くとします。その後に別所にて、私は過剰診断を当該文章で説明した、と主張するとしましょう。その場合、私は過剰診断について説明していない、と言えるでしょうか。

どこまで詳しく

語形を記す事と意味を説明する事は違う、のを踏まえた上で、その現象がどういうインパクトを持つかの説明の細かさや分量をどうするかは、別の議論としてあるでしょう。症状の出ないものまで見つけちゃいますよ、と言っても、ふーん、そう、となるだけかも知れません。確かに用語の説明はおこなっているけれども、それだけでは、病悩期間延伸によるQOL低下や、周りの人含めた心理的経済的負担などは、すぐには思い至らないかも知れません。その意味では、説明不足との批判を受ける可能性はあります。

じゃあ、程度をどう説明するか。QOLが下がると言っても、定量的評価はどうしますか? そもそも検診の有効性評価が乏しいので、QOLYの比較による証拠もほとんど見つかりません。乳がん検診や前立腺がん検診では無いのです。なら、病気に罹っている事による不安や負担を受ける、と定性的な話だけしますか? でもそれだと、リスクを定量的に示すという目的に合致しません。害の程度も判らんのに害があると声高に吹聴するのか、と言われるでしょう。1人が受ける害の可能性と、それが集団でどのくらい生ずるのか、も観点が異なります。

アップした直後の追記:上の説明は、余剰発見以外の害の評価も混じってますね。余剰発見の量的評価と、検診するしないでのQOLの比較は別の話でした。余剰発見によるQOL低下は、それ自体生ずる必要の無かった害です。

韓国の事例でも出しますか? 確かに余剰発見の規模は大きいと推計されています。けれど、それは成人の例です。成人で9割以上が余剰発見との推計があるとして、それをどう小児に一般化しますか。成人は相対的に余命が短いから比較的推計がしやすいという事情があります。それを、より余命の長い小児の話にどう結びつけますか。比較的に推計しやすいと言っても、推計自体がそもそもめちゃくちゃ難しいのです。余剰発見の割合をどう推計しているか知っていますか? そこを説明出来なければ、検診における余剰発見の害の程度をどう知らしめましょうか。

腫瘍が縮小しているとの話を出しますか。しかるにそれは、短期間の観察データを成長モデルに当てはめ、それをシミュレーションした結果をもって主張されるものです。それを、ラテントがんになるまで成長が停滞する現象の生じている強い証拠と看做せるのでしょうか。

いま言えるのは、成人では検診をすると高い割合で余剰発見が起きると推計されている事と、小児で余剰発見の割合がごく低いと考えると成人の例と整合しにくい、という事くらいです(成人での症状発現例を小児時の罹患で説明していかないといけない)。そこから先は無理です。今後も困難でしょう。検診して比較出来ませんからね。有効性が乏しかろうと評価されている検診でRCTなど、もってのほかです。

マイクロシミュレーションをおこないますか? おこなったとして、それで得られた結果を強い証拠として採用して良いでしょうか。まず、それなりのデータ無しにシミュレーションは出来ません。乳がんなどではRCTのデータも使われます。それをどこから持ってきましょうか。※私は、総当たり的に実行したマイクロシミュレーションの結果を補助的あるいは間接的な証拠として検討するのは、極めて重要だと考えます

じゃあ、過剰診断の説明をきちんとする、とはどこまでを言うのか。最低限すべきなのは、その意味合いを教える事でしょう。それはけっこう形式的なものだから、やるのは難しくありません。症状の原因にならない病気を見つける事とか、検診しなければ発見されないような病気を診断する事、と言えば良い。それをすれば、少なくとも説明していないとは言えない。字面に拘る必要が無いのは書いてきた通りです。問題はその先。過剰診断によってどこまでの影響を及ぼし得るか、あるいは及ぼしているのか。それは、いま得られている証拠によって支持されるもので無ければなりません。もしEBM的な観点を維持してものを言いたいなら、です。無視するのも一つの立場でしょうが、科学的と評されるかは別です。

私の現状の認識は、小児への甲状腺がん検診によって生ずる過剰診断の害の量的評価は困難であり、当て推量によって害を喧伝すべきでは無い、というものです。ですが、私は甲状腺がん検診に反対の立場です。それは、過剰診断の程度が大きいからでは無く、検診によって有効性が得られる知見が全く無いから(成人においては、有効性が得られないであろう強い間接的証拠がある)です。用語を使うと、正味の便益(net benefit)の証拠が無いから、です。

他の反対者よりは消極的に見えるかも知れませんし、実際そうなのでしょうが、私がやろうとしているのは証拠に従って考える事ですから、結果的にそうなるのは全く構いません。付け加えると、過剰診断の害にばかり意識が行くと、過剰診断以外の害についての言及が疎かになる、というのもあります。

言葉について

dot.asahi.com

若い頃、自分と他人とで、使っている言葉の意味合いにズレが生ずる事に悩まされていました。また、自分の考えている事を文章にしたり喋ったりする時に、頭の中にあるそれをちゃんと表現出来ない、というのがすごく嫌でした。表現出来ないからしない、そういう時期もありました。言葉にとらわれていたのでしょうね。

色々な本を読みました。時間があったし、ある具体的な事についてもっと知りたいと思っていた時期でした。そこで影響を受けた人が言及していた論者の本にも、たくさん目を通しました。

その流れで出会ったのが、ソシュール関連の議論や思想でした。目から鱗というやつですね。かぶれた、と言って良いでしょう。言語、一般的には記号の恣意性なる概念を知って、痺れましたね。世界の、概念の切り取りかた、そして、それをのせる記号表現のありかたは、極めて柔軟であって、ガチガチに固まったものでは無いと認識しました。悟った、のかも知れません。

その考えは、自分が言葉を使う事、つまり話したり文章を書いたりするにあたり、今も影響を与え続けています。本当は、上で書いた、ソシュールを援用した別の論者に受けた影響が甚大なのですが、まあそれは措いておきます。源流はソシュールなのでしょうから。当時は、現代思想とかポストモダンとか、そういう流行もあったりして、ソシュールやら構造主義やらに影響を受けた人は、けっこう多かったかも知れません。

それはともかく、記号論的な議論における最重要の概念である、記号の恣意性というものを知ったのは、とにかく衝撃でしたね。それまで言葉というものにとらわれていたのが、解放されたような気分になりました。
念のために言っておくと、これは、私が記号論記号学、あるいは言語学の専門的な勉強をしてそれに通じるようになった、という話ではありません。そこで使われる重要概念を知る事によって、世界(現象なり存在なり観念なり)の認識のしかたが変わった、そういう経緯の話でしかありません。ちなみに、わざわざこんな事を書く理由の1つは、このブログが言語方面のプロに読まれる可能性があるからです。

記号の恣意性あるいは無契性を考えるようになると、自分が使う言葉と他者が使う言葉とでは、そこに付与される意味内容にズレが生じ得る事を、強く意識するようになります。そこから、自分がこういう意味で使った言葉でも相手には違う意味で受け取られる事がある、のをよく考えるようになります。

これは、いわゆるいじめなる現象を考える際にも役立ちます。あれです、今で言うイジりといじめの関係、みたいな感じです。言語を一般化すると、行為をも含んだ記号と言えますが、何らかの言葉を投げかける、あるいは身体的表現をおこなう、という記号について、発する側が軽く思っていたとしても、受け取る側は深く傷つく場合がある、というような事を考える訳です。これは要するに、同じ記号が、発信者と受信者により、異なる意味で捉えられる可能性があるのを示唆します。先に挙げた、私が強く影響を受けた論者は、だいぶ前にこの話を、いじめとフザケの瓦重構造、と表現しました。つまり、ある行為なりが、いじめ、かつフザケ、の両方の意味を同時に持ち得る、という構造があるのを示したのです。これは、私が今もずっと、念頭に置き続けている概念です。

いっぽうにとっては軽口でも、別の人にとってはものすごく刺さる言葉となる、みたいなのは、日常的にも取り沙汰される場合があります。バカやアホ、といった語の受け取られかたが地域によって違う、なんてのもその一種です。ある語なりの記号にどのような意味を結びつけ、どういう記号を受け取って傷つくかのかは、生まれついての特徴や、成長する際の環境要因によって形成されていくのでしょう。人文科学方面で言えば、状況やコンテクストというのもあります。結果として形成された記号の体系は、記号論的にはコードと言うでしょうか。恣意性なり瓦重構造なりは、そういう事の根本的な構造を捉えて一般的な重要概念としたものと言えます。

現象なり概念なりを切り取り、それを記号表現に結びつけて発信し、違うコードを持つ相手と上手くやりとりするのは難しい事です。そもそも困難なものなのだと考えつつコミュニケーションにあたる必要があります。アプローチとしては、コードの異なる人同士のやり取りだから、常に確認や修正を怠らずに、なるべく表現と意味との結びつけや現象や概念の切り取りかたを近づけるようにする事と、その切り取りかたと表現との結びつけを厳密におこなっているコードについて把握する、というものです。

後者のアプローチは、哲学や数学、実証科学等のアプローチです。記号の恣意性うんぬんについて知るのは大切ですが、ただそれだけだと、言葉なんて、記号なんてそんなもの、となって止まります。人によっては、所詮そんなものだから、全部曖昧だ、みたいに考えるかも知れません。いわゆる相対主義的な方向に行くかも知れません。そこで、そういう方面とは異なる、概念の切り取り、整理、そしてそれに対する記号表現の結びつけを厳密におこなおうとするアプローチを押さえておくのが、とても肝腎なのですね。

両方の観点を持つのが重要です。片方だけではいけません。恣意性や相対化ばかり考えると、何も解らないんだ、となりそうですし、逆に、言葉と意味、現象の切り取りを強くリジッドに考えてしまい、日常表現にまでそれを持ち込むと、コミュニケーションに支障を来します。これはいじめでは無くイジりだ、みたいなのを押し付けたりね。相手がどのようなコードで記号を解釈したか、を無視してしまう訳です。あくまで1つの体系内における厳密さや普遍性であるのに、まるでそれを、分野を超えて通底するかのように一般化する、というのに気をつけたい所です。記号論に、エティックと、エミックあるいはイーミックってありますね。あれです。

最初に貼った、太田氏の記事。たぶん太田氏が言っているのは、頭の中で展開している概念や心像を伝えるには、音声や文章などの記号表現では不足している、という事が1つ、なのだと思います。私は、そんなのはそもそも無理だ、と割り切りました。でもそれは、いついかなる時でも何も出来ないと考えているのではありません。厳密な話をしたい時には、厳密な話をしようとして作られたツールを使うのを意識しています。それが科学ですね。科学には科学の限界があるけれど、限界を踏まえつつ、なるだけ現象を厳密に切り取り整理して、それに名前をつけて共有するのを志向します。術語の厳密な定義および、それらの整合性を維持する営み、それが科学なるものの一側面です。要するに、記号表現と記号内容にはどうしたってズレなり不足なりが生ずる、それを理解した上で、それでも出来るだけやってみようとする分野の知見も押さえておく、といった感じです。だから、何でこんなに伝わらないんだよ、とはならないですね。コードを共有していないのだから、伝わらなくて当然だろう、となっています。楽と言えば楽です。しかも、共有しておいたほうが良いコード、つまり科学、の威力と面白さも知っている訳です。
そこでは徹底的に厳密にやります。恣意性がどうとかは後回し。分野における概念や用語のコンセンサスを重視し、綻びが無いようにしたいし、もしあれば綺麗に繕うよう努めています。訓練、鍛錬ですね。

こういうのは、達観なのか諦観なのか、よく解りません。どちらかに決める必要も、別にありませんけれど。

太田氏が主張するもう1つのほう、つまり、言葉が凶器になる、という所について。

これは、先に挙げた瓦重構造の話にもつながるし、それとは既に離れているのかも知れません。

太田氏が言っているのは、言葉という有形的で無いものでも、それは時に人間の命をも奪ってしまうものとなり得る、との主張です。これは、言葉なるもの、つまり、音声なり光なりを通じて伝達された表現が、かつ凶器、として機能し得るのを指摘している訳です。ある種の瓦重構造の指摘です。だって、あなたは軽く使っているかも知れないけど相手にとっては命を絶つ凶器にもなるよ、と主張しているのですからね。イジりと言っている人に、それはいじめになり得る、と指摘するのと一緒です。かついじめ、となる瓦重構造の指摘。

ただ、この主張は、届く場合もそうで無い場合もあります。つまり、解ってやっている人には通じません。要するに、別にそいつがどうなろうが知ったこっちゃ無い、と考えている人には通じません。自分の言葉で命を絶つ? 別に構わんよ、となる人。それは凶器にもなるよ、と言われてはっとなる人であれば良いです。認識を改め、言葉遣いも改める可能性があるから。でも、そんなの知らん、と言う人もいるでしょう。割合としては小さくても、発信される総量が、つまり分母が大きくなれば、凶器を凶器と知りながら使う人も増えるのでしょう。凶器の数が増えると、当たって怪我をする可能性も増えます。書きながら、うんざりして頭の痛くなってくる話ですが、これはSNSの隆盛等の負の側面、ではあるのでしょう。

太田氏は、そういう凶器による攻撃を、おそらく想像を絶する数が浴びせられる当事者の一人でしょうから、いま書いたような話をよく理解しながらも、それでも何とかならないか、と考えて発信しているのだろうとは思います。歯痒いのでしょうね。言葉というのは、実に難しいものです。