言葉について

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若い頃、自分と他人とで、使っている言葉の意味合いにズレが生ずる事に悩まされていました。また、自分の考えている事を文章にしたり喋ったりする時に、頭の中にあるそれをちゃんと表現出来ない、というのがすごく嫌でした。表現出来ないからしない、そういう時期もありました。言葉にとらわれていたのでしょうね。

色々な本を読みました。時間があったし、ある具体的な事についてもっと知りたいと思っていた時期でした。そこで影響を受けた人が言及していた論者の本にも、たくさん目を通しました。

その流れで出会ったのが、ソシュール関連の議論や思想でした。目から鱗というやつですね。かぶれた、と言って良いでしょう。言語、一般的には記号の恣意性なる概念を知って、痺れましたね。世界の、概念の切り取りかた、そして、それをのせる記号表現のありかたは、極めて柔軟であって、ガチガチに固まったものでは無いと認識しました。悟った、のかも知れません。

その考えは、自分が言葉を使う事、つまり話したり文章を書いたりするにあたり、今も影響を与え続けています。本当は、上で書いた、ソシュールを援用した別の論者に受けた影響が甚大なのですが、まあそれは措いておきます。源流はソシュールなのでしょうから。当時は、現代思想とかポストモダンとか、そういう流行もあったりして、ソシュールやら構造主義やらに影響を受けた人は、けっこう多かったかも知れません。

それはともかく、記号論的な議論における最重要の概念である、記号の恣意性というものを知ったのは、とにかく衝撃でしたね。それまで言葉というものにとらわれていたのが、解放されたような気分になりました。
念のために言っておくと、これは、私が記号論記号学、あるいは言語学の専門的な勉強をしてそれに通じるようになった、という話ではありません。そこで使われる重要概念を知る事によって、世界(現象なり存在なり観念なり)の認識のしかたが変わった、そういう経緯の話でしかありません。ちなみに、わざわざこんな事を書く理由の1つは、このブログが言語方面のプロに読まれる可能性があるからです。

記号の恣意性あるいは無契性を考えるようになると、自分が使う言葉と他者が使う言葉とでは、そこに付与される意味内容にズレが生じ得る事を、強く意識するようになります。そこから、自分がこういう意味で使った言葉でも相手には違う意味で受け取られる事がある、のをよく考えるようになります。

これは、いわゆるいじめなる現象を考える際にも役立ちます。あれです、今で言うイジりといじめの関係、みたいな感じです。言語を一般化すると、行為をも含んだ記号と言えますが、何らかの言葉を投げかける、あるいは身体的表現をおこなう、という記号について、発する側が軽く思っていたとしても、受け取る側は深く傷つく場合がある、というような事を考える訳です。これは要するに、同じ記号が、発信者と受信者により、異なる意味で捉えられる可能性があるのを示唆します。先に挙げた、私が強く影響を受けた論者は、だいぶ前にこの話を、いじめとフザケの瓦重構造、と表現しました。つまり、ある行為なりが、いじめ、かつフザケ、の両方の意味を同時に持ち得る、という構造があるのを示したのです。これは、私が今もずっと、念頭に置き続けている概念です。

いっぽうにとっては軽口でも、別の人にとってはものすごく刺さる言葉となる、みたいなのは、日常的にも取り沙汰される場合があります。バカやアホ、といった語の受け取られかたが地域によって違う、なんてのもその一種です。ある語なりの記号にどのような意味を結びつけ、どういう記号を受け取って傷つくかのかは、生まれついての特徴や、成長する際の環境要因によって形成されていくのでしょう。人文科学方面で言えば、状況やコンテクストというのもあります。結果として形成された記号の体系は、記号論的にはコードと言うでしょうか。恣意性なり瓦重構造なりは、そういう事の根本的な構造を捉えて一般的な重要概念としたものと言えます。

現象なり概念なりを切り取り、それを記号表現に結びつけて発信し、違うコードを持つ相手と上手くやりとりするのは難しい事です。そもそも困難なものなのだと考えつつコミュニケーションにあたる必要があります。アプローチとしては、コードの異なる人同士のやり取りだから、常に確認や修正を怠らずに、なるべく表現と意味との結びつけや現象や概念の切り取りかたを近づけるようにする事と、その切り取りかたと表現との結びつけを厳密におこなっているコードについて把握する、というものです。

後者のアプローチは、哲学や数学、実証科学等のアプローチです。記号の恣意性うんぬんについて知るのは大切ですが、ただそれだけだと、言葉なんて、記号なんてそんなもの、となって止まります。人によっては、所詮そんなものだから、全部曖昧だ、みたいに考えるかも知れません。いわゆる相対主義的な方向に行くかも知れません。そこで、そういう方面とは異なる、概念の切り取り、整理、そしてそれに対する記号表現の結びつけを厳密におこなおうとするアプローチを押さえておくのが、とても肝腎なのですね。

両方の観点を持つのが重要です。片方だけではいけません。恣意性や相対化ばかり考えると、何も解らないんだ、となりそうですし、逆に、言葉と意味、現象の切り取りを強くリジッドに考えてしまい、日常表現にまでそれを持ち込むと、コミュニケーションに支障を来します。これはいじめでは無くイジりだ、みたいなのを押し付けたりね。相手がどのようなコードで記号を解釈したか、を無視してしまう訳です。あくまで1つの体系内における厳密さや普遍性であるのに、まるでそれを、分野を超えて通底するかのように一般化する、というのに気をつけたい所です。記号論に、エティックと、エミックあるいはイーミックってありますね。あれです。

最初に貼った、太田氏の記事。たぶん太田氏が言っているのは、頭の中で展開している概念や心像を伝えるには、音声や文章などの記号表現では不足している、という事が1つ、なのだと思います。私は、そんなのはそもそも無理だ、と割り切りました。でもそれは、いついかなる時でも何も出来ないと考えているのではありません。厳密な話をしたい時には、厳密な話をしようとして作られたツールを使うのを意識しています。それが科学ですね。科学には科学の限界があるけれど、限界を踏まえつつ、なるだけ現象を厳密に切り取り整理して、それに名前をつけて共有するのを志向します。術語の厳密な定義および、それらの整合性を維持する営み、それが科学なるものの一側面です。要するに、記号表現と記号内容にはどうしたってズレなり不足なりが生ずる、それを理解した上で、それでも出来るだけやってみようとする分野の知見も押さえておく、といった感じです。だから、何でこんなに伝わらないんだよ、とはならないですね。コードを共有していないのだから、伝わらなくて当然だろう、となっています。楽と言えば楽です。しかも、共有しておいたほうが良いコード、つまり科学、の威力と面白さも知っている訳です。
そこでは徹底的に厳密にやります。恣意性がどうとかは後回し。分野における概念や用語のコンセンサスを重視し、綻びが無いようにしたいし、もしあれば綺麗に繕うよう努めています。訓練、鍛錬ですね。

こういうのは、達観なのか諦観なのか、よく解りません。どちらかに決める必要も、別にありませんけれど。

太田氏が主張するもう1つのほう、つまり、言葉が凶器になる、という所について。

これは、先に挙げた瓦重構造の話にもつながるし、それとは既に離れているのかも知れません。

太田氏が言っているのは、言葉という有形的で無いものでも、それは時に人間の命をも奪ってしまうものとなり得る、との主張です。これは、言葉なるもの、つまり、音声なり光なりを通じて伝達された表現が、かつ凶器、として機能し得るのを指摘している訳です。ある種の瓦重構造の指摘です。だって、あなたは軽く使っているかも知れないけど相手にとっては命を絶つ凶器にもなるよ、と主張しているのですからね。イジりと言っている人に、それはいじめになり得る、と指摘するのと一緒です。かついじめ、となる瓦重構造の指摘。

ただ、この主張は、届く場合もそうで無い場合もあります。つまり、解ってやっている人には通じません。要するに、別にそいつがどうなろうが知ったこっちゃ無い、と考えている人には通じません。自分の言葉で命を絶つ? 別に構わんよ、となる人。それは凶器にもなるよ、と言われてはっとなる人であれば良いです。認識を改め、言葉遣いも改める可能性があるから。でも、そんなの知らん、と言う人もいるでしょう。割合としては小さくても、発信される総量が、つまり分母が大きくなれば、凶器を凶器と知りながら使う人も増えるのでしょう。凶器の数が増えると、当たって怪我をする可能性も増えます。書きながら、うんざりして頭の痛くなってくる話ですが、これはSNSの隆盛等の負の側面、ではあるのでしょう。

太田氏は、そういう凶器による攻撃を、おそらく想像を絶する数が浴びせられる当事者の一人でしょうから、いま書いたような話をよく理解しながらも、それでも何とかならないか、と考えて発信しているのだろうとは思います。歯痒いのでしょうね。言葉というのは、実に難しいものです。