綺麗な所と汚い所
私の武術の先生は、教える相手を呼び捨てにする事は絶対に無かったし、指導中に声を荒らげて注意するのもあり得ませんでした。指導に暴力を伴わせるというのは考えられない場だったと思います。
尊敬する先輩は、後輩にも丁寧な接し方で、知識も豊富でとても聡明な方でした。今も心がけている様々な事を教わりました。乱暴な稽古と厳しい稽古は同じでは無いよ、とも言われました。
後輩や年少者が道場を掃除しなくてはならない、のような事もありません。手が最初に空いた人が率先してやる、という感じでした。そういう意味での上下関係のようなものは皆無だったのです。
これは綺麗な話。続いて汚い話。
他の道場では、投技で気絶した人をそこら辺に放ったらかした、という話を聞きました。罰とは言えないかも知れないけれど、その行為がどれほど乱暴で危険かは、すぐに解る事です。それは、「同じ武術(合気道)」の組織の中での話です。
私が学生の頃、剣道部では、顧問が指導中に蹴りを入れていた、なんて事があったそうです。柔道部の顧問は、生徒の顔面を拳で殴りました。
同じ流派や競技でも道場によって、指導者によって様子が大きく違うという事があるとすれば、それは、武術・武道の鍛錬や指導の場のあり方が、「教える人による」のを意味します。もしも指導の仕方にバラツキがあるのだとすると、その流派なりが掲げる理念の普遍性や汎用性が実は大袈裟であるという事になります。いくら、当流では人格を陶冶する事を目的とする、暴力的な指導はしない、等と掲げていても、実態が伴っていないのでは意味がありません。「指導者の品質管理」がなっていないという事なのですから。
私は、武道や武術は人格形成にいいよ、等とは間違っても言いませんし、それを求める人に、武道はいいよ、みたいに言う事もありません。そういう一般的な言い方は怖い。だから、「先生による」と言うでしょう。以前、とある学校の武道場において、畳に乱雑に散らばっている柔道着を見た時、ああ、武道の「道」とは何だろうな、等と感じた事を思い出します。