表現に要求する論理的な厳密さ
yunishio氏は、ホメオパシーについても医学についても知識を持たず、そこに立ち入るつもりは無いそうです。そして、それが無くても出来る議論をしている、と考えておられるようです(参照⇒http://twitter.com/yunishio/status/361086933109190657 http://twitter.com/yunishio/status/361158497313898496)。
で、そこら辺の議論に入らずとも、NATROMさんの詭弁は指摘出来ると主張なさっている(参照⇒http://twitter.com/yunishio/status/361113295291301888)。これはどういう事かと言うと、NATROMさんはそもそも形式論理的なレベルで誤謬をおかしているのだから、具体的な医学的議論に踏み込まなくても批判は出来る(踏み込むまでも無い)、という認識なのでしょう。それが証拠に、次のようなつぶやきをyunishio氏は書いています。
そんなに難しい話ですかね。二重盲検法によって物質Aが原因物質でないことが証明された場合に「おなじ化学物質だから物質Bも原因物質ではないだろう、物質B原因説は反証された」と言ったらおかしいでしょう。それだけの話ですよ。
http://twitter.com/yunishio/status/361120332842676225
要するに、ある物質について、それが原因で無い事が判明(ここについては後でまた書きます)したとしても、他の物質についてもそう言える訳は無かろう、という指摘です。これはつまり、帰納的推論のまずさの指摘です。
実際、帰納的推論はそのような限界を持っているのですが、全知全能ならざる人間の知的活動としての科学的方法は、そもそも帰納的推論に頼らざるを得ない訳で、もしも、科学的な言明に、強い厳密さを求めるのならば、前のエントリーでも書いたように、効くとか効かないとか、因果関係にあるとか無いとか、そういう表現そのものが不可能となります。
そして、科学による研究の結果に対して、色々な言い逃れが出来るようになってしまいます。ホメオパシーレメディで言えば、今まで検討された否定的な研究の全てが誤っているとか、実はある種のヒトには効くのだとか、それはほんとうのレメディでは無いのだとか、介入研究に用いられたレメディ以外の物が実は効くのだとか、色々な ad hoc な言い逃れが可能です。
帰納的推論は確かに限界がある。しかし、経験科学の文脈を踏まえて、それまで蓄積された充分なエビデンスがあれば、効かないとか因果関係に無いといった表現をする事は可能であろう、という立場を認めるかどうか、でしょう。
ところで、yunishio氏は、ホメオパシーが理論的に反証されている
と発言なさっています(http://twitter.com/yunishio/status/361081809473249280)。別のつぶやきでは、もっと強く、理論的に誤りが証明されています。
とも発言します。全体はこうです(強調は引用者)。
もしかしてIQ低いですか。ホメオパシー医学会はレメディを希釈するほど効力が高まると主張しており、すでに原料物質の分子すら残っておらず理論的に誤りが証明されています。また不適切な実験方法を持ちだして対照実験では有意差がなく反証されてないとでも主張しますか?w
http://twitter.com/yunishio/status/361069157556563968
要するに、元の物質の分子が一分子たりとも残っていないホメオパシーレメディは効かない、と。それが理論的に誤りが証明されているという主張。
私にはこれは、yunishio氏の立場からすれば一貫しない主張に思えます。と言うのは、yunishio氏の発言、つまり理論的に誤りが証明
という言明は、現代の化学や生理学の知識の体系に基づいているからです。それは、現代の科学という体系から演繹的に導かれた結論です。しかしながら、現代の科学はそもそも、経験的に得られたデータに基づいて構築された体系です。すなわち、科学自体、帰納的推論が用いられ組み立てられてきた体系である訳です。yunishio氏の立場を厳密に適用するならば、経験科学的な体系である所の化学や生理学に立脚して得られた結論は、証明などとは呼べないという事になるでしょう。もしも、経験科学的な体系から演繹的に導いたものを証明と呼び、その言葉が、厳密な意味での証明というのと同じくらいの強さを持つと言うのであるならば、それは、その立脚する経験科学的体系が正しい、と言っているのと同じようなものです。
一方、ホメオパシーに批判的な人は*1、現代の科学が正しいと考え、それから理論的に導かれた評価を持ってレメディを効かないと判断している、のではありません*2。そもそも科学は完全では無い事を知っています。現象を説明出来る理路をいくつも設定出来、それは現代の知見から絶対に無いと言い切る事は無理である事も知っています。だからこそ、主張される原因と想定される結果との関連を見、因果関係を推論する、という方法によって確かめられるべきである訳です。こと、効果のある無しの議論については特に。
yunishio氏のような見方を厳密に適用しようとすると、
そんなに難しい話ですかね。二重盲検法によって物質Aが原因物質でないことが証明された場合に「おなじ化学物質だから物質Bも原因物質ではないだろう、物質B原因説は反証された」と言ったらおかしいでしょう。それだけの話ですよ。
http://twitter.com/yunishio/status/361120332842676225
ここにあるような、二重盲検法によって物質Aが原因物質でないことが証明
される事そのものが不可能となるのではないでしょうか。物質Aというもの自体が、ある特徴を持つ物質総体を表す表現であって、物質Aなるユニークな存在の事を言っているのでは無いのでしょう? あるいは、その物質Aというのが、ある特徴を持つ物質の集まりであるとして、それがヒトに与える影響を考えるならば、有限回の二重盲検法を行った所で、物質Aが原因物質でないことが証明
される事は無いでしょう。何故ならば、その物質Aによって症状を呈するヒト x の存在を、有限回の介入研究によって否定し切る事は論理的に不可能だからです。