検診(スクリーニング)に対する先入見と、医薬品のアナロジー
福島県における甲状腺がん検診を縮小すべきで無い、と主張する人は、
検診も、ある効果を期待しておこなわれる医療介入行為である
という認識が抜けているのではないか、と考えています。
検診の目的は、早期発見する事そのもの、ではありません。早期発見によって、
- 症状が出ないようにする
- 死ぬはずの命を救う
- 寿命を延ばす
このような効果をもたらす事が、検診の目的であり、それが達せられる場合、その検診は有用である、と評価されます。
検診は、効果が期待される介入で、その効果を、医薬品における主作用になぞらえるならば、医薬品の使用に伴う副作用(の内、有害なもの)にあたるものも検診にあるのではないか、と考える事が出来ます。それが、
- 過剰診断
- 誤陽性、誤陰性
- 誤診
- 時間や費用のコスト
これらです。
医薬品が、それのもたらす主作用と副作用とを検討して処方される、というのは、よく知られている所です。薬を貰う際は、医師や薬剤師から、何に効くかという事だけでは無く、好ましく無い作用についても説明され、それが記載されたプリントを渡されます。
市販の薬を買う場合にさえ気にする時もある、それくらい身近の知識でしょう。
しかるに、こと検診となると、それが忘れ去られる。
まず、薬の主作用にあたるものが検診にあるのか、それを考えます。期待する効果は、延命や救命等ですので、それが確認されていないものは、効くか判らない薬に相当しますし、検診の種類によっては、効かないと判った薬(効かないと判った物を薬と呼ぶかは措いて)に当たるものもある訳です。
福島の甲状腺がん検診を縮小する、という方策について(それが実際に主張されているかとは別に、その方策自体を考えます)、愚策であると批難する人がいますが、その人は、検診が有用であると信じてそう主張していると思われます。であるなら、検診が有用である証拠を持っている、あるいは提出出来るはずです。そうで無ければ、効くか判らない薬を与えるのを止めさせる事に反対する、のと同じです。その薬は効くか判らないのでしょう? それを与え続けるのはまずいのでは? と言われているのと同様なのだから。
実際は、成人に対する甲状腺がん検診は恐らく無効であろうという事が確かめられていますから、これはむしろ、効かない薬に相当します。それを踏まえて、検診は縮小した方が良かろう、という論理です。
ところが、これについて、成人に対する検診の知見はともかくとして、若年者に対する検診は調べられていないのだから、縮小するのはおかしいのではないか、というような反論をする人がいます。しかし、これはおかしいのです。何故なら、若年者に対する検診の効果が未だ確かめられていないのだとすれば、それは、効くか判らない薬を与えるのに相当するのだから、いずれにしても、検診は控えるとなるのが整合的であるからです。
効果が確かめられていない検診が行われている。それを縮小する事には反対
この意見は言わば、
検診に効果があるかどうかを、福島県の人を対象にして確かめる
と主張しているようなものです。
やってみた方が良いのではないかというのは、同じようなものが効く事が判っているとか、理論的に効く事が期待される、といった場合ですが、その場合でも、医薬品では、動物実験や臨床試験で効果を確かめるプロセスを踏まなければならない訳です。当然、臨床試験参加者からは、参加するそれが臨床試験である事についての同意を得ねばなりません。その過程をすっ飛ばして、いきなり実地で使う事が適切であるのかは、少し考えれば解るはずです。ましてや、甲状腺がん検診については、(成人と若年者を分けるとすれば)似たようなものが効かないであろう事が判っているケースに相当するのですから、尚更です。
無効な検診をおこなえば、受けた人にもたらされるのは、害ばかりです。先に挙げた、過剰診断・誤陽性や誤陰性に伴う心理的負担・検診とその後の処置やフォローに伴う時間的金銭的負担、等々。しかも、心理的負担や時間的金銭的コストは、本人のみならず、家族にまで振りかかるものです。
このように、検診というものも、医薬品などと同じく医療介入行為であるのですから、薬に対して、その効果はいかほどか、副作用はどんなものか、と関心を向けるように、メリットとデメリットについて、よく考えなければなりません。そして、今おこなわれている検診を縮小すべきで無い、という主張には、その種類の検診、もしくは似たような検診に効果があるという証拠が伴っている必要があります。
よろしいですか。ことは、既におこなわれている介入です。縮小すべきと言う人が、効かない証拠を出す、という前に、介入を続けるべきと言う人が、効果のある事を論証出来なければならないのです。*1
*1:縮小すべきと言う人は、成人に対する検診の例を補外し、傍証あるいは、直接的証拠に近いもの、として提出するでしょう