語彙と読書と本
題から読み取れる、著者の主張は、
頭を使って働く人には読書が必要であり、理由をこの記事で説明する
というもの。その、理由らしき内容が書かれている所を引用。
語彙を増やす、つまり知的能力を向上させるのに、読書は最も優れている活動の一つだからだ。
この文は、
- 語彙を増やす事と知的能力を向上させるのは同じ意味である(
つまり
で繋いでる所より)。 - 語彙を増やすという目的について、読書なる活動は、他のものに比して大きな効果を及ぼす
こう分解出来る。
しかるにまず、
語彙を増やす
知的能力を向上させる
これが同じ意味である理由は大して説明されていない。数学者の藤原正彦が指摘するように
と、他者がそう言っている、くらいしか無い。※藤原を引いて主張しているのは、知的活動
とは、であるので、その語と同じような意味合いとして知的能力を向上させる
と書いているのだろう
なお、冒頭で書かれている、お子さんのエピソードは、問題文がどのようなものであるかなどが書かれていないので、どういう主張をしているのかも、その主張が妥当なのかも解らない。
語彙を増やすのと知的能力を向上させるのが同義であるのなら、語彙と知的能力が同義となる。語彙とは辞書的には、ある範囲で使われる単語の総体であって、それほど広い意味は指さない。そもそも、引かれている藤原による語彙の用法に曖昧な所があると思える。藤原は数学的言語の量
を語彙と表現しているようであるが、そこでは語彙を、数理的論理構造の把握と専門用語の記憶をも含めたアナロジカルな表現として用いているように見える。その時点で、辞書的な意味での語彙からかけ離れている。要するにこの記事では最初から、
いくつかの意味を付与した特殊な意味合いで語彙を用いている
と言える。細かく見ると、
このように「語彙」というのは、想像以上に知的活動に重要
ここでは、語彙を知的活動に寄与する要因のように捉えているにもかかわらず、その後で語彙を増やす、つまり知的能力を向上させる
と書き、語彙と知的能力を同義的に扱っていて、意味がぶれている。語彙が知的能力であるのならば、それが想像以上に知的活動に重要
と表現する所の意味が取りにくい。そもそも、知的活動と知的能力をどのように使い分けているのか、の問題でもある。
ひとまず、語彙と知的能力を同じようなものだとしておくとして、それを増やすのに読書は最も優れている活動の一つ
とするのは、自明では無い。本を読めば語彙が増えるだろうくらいの経験的な意見程度であって、題の読書が絶対に必要な理由
を補強する根拠としては使えない。
もし、読書が語彙を増やすのに最も優れているのだと言いたいのなら、他のものと比較する必要がある。実証的には、読書量と語彙の関連を見る、などが基本の方法。もちろん、関連が見られたとしても、読書が語彙を増やすとすぐには言えない。読書量と語彙をどのように測れるか、の観点もある(数量化や測定尺度の議論)。
そもそも、ISOにおける品質の語の定義をエレガントと褒めそやすような事を書いておきながら、読書の定義が無い。引用されている藤原の文にはインターネットへの言及があるが、インターネットとは、様々の種類の情報をやり取りするための超々巨大のネットワークを指す語であるから、そのような存在・概念と、本とを比較する事自体が誤っている。
読書の定義が無いと先に書いたが、もし読書を、本を読む事と定義するとすれば、本の定義が必要となる。絵より文字の割合が大きいものを言うのか、とか電子書籍は含むのか、など色々の観点がある。私は、画集や写真集や図鑑やマンガは全て本と認識するし、紙媒体は必要条件とは捉えない。テキストベースだとしても、短編も長編も、詩集も推理小説も、全て本である。文字の割合が低い本を、絵本と称するではないか。それらを読むのを読書と表現する事に何も違和感は無い。
現代において、本なる語そのものが、実に曖昧で複雑な概念を指していると言える。
結局のところ私には、頭を使って働く人に、読書が絶対に必要な理由。
は、記事を読んでも全く解らなかった。そもそも、頭を使って働く人
とはどういう意味なのか。頭を使うとはいかなる行動・概念なのか。そこがまず解らなければ、それに何が必要であるかを考える事など出来ない。