燎原の火の如く

昨今、いわゆるICTの発展により、空間的に大きく離れた地にいる者同士が即時的にやり取りをし、様々の情報を簡単に交換できるようになってきた。これはまさに、科学あるいは科学技術の発展の成果であり、大いに誇って良い事であると思う。

しかるにそのいっぽうで、SNSなどの隆盛に伴い、誹謗中傷や流言飛語の類の伝播する速さ早さも、数十年前とは比べ物にならなくなってきた。これは、ある技術なりの発展の負の側面であろう。

科学のようで科学で無いもの、すなわちニセ科学と呼ばれる言説についても、それがひとたびSNSで発信されれば、あっという間に世間の耳目を集め、あたかもそれがほんとうに確認された事実であるかのごとく流布される。特に健康関連のニセ科学であれば、これは由々しき事態である。

ここ数年では、新型コロナウイルス感染症関連の言説、たとえばワクチンに関するものについて積極的に発信されてきた。それより前には、東日本大震災によって引き起こされた原子力発電所事故に関する言説が飛び交っていた。特に、放射線曝露による健康影響についてまことしやかに害の有無を主張するものは、激しい議論を巻き起こした。

時間的空間的制限を取り払って人びとがコミュニケーションできるようになった事は、たいへん好ましい所だと思う。昔は、図書館に行って本を漁ったり、専門家を訪ねて訊く、などのコストを払わなければならなかったものがいまや、比較的低いコストによって、専門的な知識の集積に触れるのが可能となった。

様々の情報に簡単にアクセスできるようになった事は、必ずしもその情報の良質である所を保証しない。情報の海、あるいは雲と言っても良いが、その中から上手く良いものを選別して妥当な知識を得て、的を外さぬ論考を展開するのは容易では無い。読み書き能力である表現を情報の取捨選択まで敷衍した、いわゆるリテラシーの必要が言われる所以である。

ニセ科学と言うからには、当然にして「科学」について意識する必要がある。それはいかなる活動か、それはどのようにして進められるのか、成果は誰がどう評価し、それによって形成された知的体系という産は、社会に何を還元するのか。これらを把握せずに、どこかで聞きかじったり、物語で見聞きした「科学」の印象に基づき、「実際の科学」とはかけ離れた言説を流布する。そこでは、必ずしも「騙そう」という心は働かない。当人にとっては善意をもって広めている場合がある。健康関連情報のニセ科学は時に人命を脅かすが、広める者はむしろ、人の命を助けたいと想ってそれを伝えているのである。

雪の結晶の形状や出来かたを研究し、また優れた随筆を物した中谷宇吉郎博士は、傑作たる随筆である『千里眼その他』において、明治頃に流行った、いわゆる「千里眼」なる透視能力を有すると称する者の出現にまつわる議論を採り上げ、千里眼について次のように述懐した。

もしそういうことが本当ならば、それは人間の精神力の神秘を解く鍵となり、また物理学なども全くちがった面貌をとるようになるであろう。従来の科学がその大筋において間違っていなかったならば、透視や念写などということは出来ないと見るのが至当である。

ここで中谷は、頭ごなしにそのような能力など無いとは言わず、もしそれがあるとしたら、と仮定している。その上で、千里眼があるのならば、それまでに蓄積された知識体系である所の物理学を全面的に書き換える必要があろう、と評価している。ここには、科学なる知は完成されたものでは無いという知的に謙虚な姿勢と、膨大な観測や実験によって確かめられ構築されてきた物理学の知識は簡単には揺るがぬ、という自信との両方を見て取れるのである。

ドラマ『トリック』の題材となった事で、ある程度現代でも知られていると思われるが、千里眼に関しては、学問の専門家がその実在を支持した、という所が注目すべき点である。すなわち、専門家が言っているのだからと、世間がその言説を支持する手助けをしてしまったのであった。そして、新聞によりその事が広く流布され、千里眼を持つと称する者が全国に出現したと言う。その後、動物学的の知識によって透視能力を支持せんとする学者が現れたりした事で、より精密の実験的手法によって現象を確かめる流れとなり、結局はそれが肯定的に確かめられはせず悲劇的な結末を辿ったのは、人間が持つと主張する超常的能力を科学的に検証するとはどういうものか、それのむつかしさの示唆を与えるものとなっている。

現代は、科学の方法がより発展し、精密となり、それが教育にも組み込まれており、世間総体としての科学の知識の持ちようは高くなったと言えるだろう。しかるに、それでニセ科学的な言説が広まりにくくなったかと言えば、残念ながらそうでは無い。むしろ、科学の方法の知識をいくらか有している者を巧妙に惑わすような言説の構成になってきたという意味で、非常に厄介なものが出てきている。たとえば、このような実験をおこなったとか、このような論文によって論証されたとか、先行研究を参照しつつ主張するとか、そういった、科学の営みの流れを把握しているからこそ騙される、という構造になっている。だからこそ、「科学のようで」科学で無い、というニセ科学なる概念が重要となってくるのである。

中谷は、新聞により千里眼が肯定的に紹介され全国に広がる事を、「燎原の火の如く」と表現した。まさに言い得て妙である。現在のSNSなどの、情報通信技術により作り上げられたコミュニケーションツールは、新聞の発行とそれを読み他の人と共有するというプロセスとは比べ物にならない速さと広さで炎を巻き起こし得る、極めて強力なものとなった。また、延焼した炎が容易に消火出来ぬ事は、現実の火事を見てもよく解る所である。性能の良い消火剤を持つ者がいるとは限らないし、いてもそれを適切に散布して回る事は簡単では無い。

私は情報通信技術に比較的よく触れており、それに親和的で、技術発展に伴う成果は好ましく思うほうであり、昨今はやりの生成AIも積極的に用いている。つまりよく馴染んでいる。けれども同時に、それが持つ、火が放たれ、瞬く間に広範囲を延焼せしめる能力という所は懸念する。かと言って徒に技術や使用状況を規制したりするべきでは無いとも考えている。悩ましい所であるが、自分ができる事としては、火をつけてしまわないのと、つけてしまったものや、誰かがつけたもので消せるものがあればそれを手伝う、くらいしか無いだろう。地道で小さいものだが、それを個々が自覚しておくのは肝要であると思う。もちろん、ではそれができる能力はいかにして身に着けるか、それが身に着いているかをどう確かめるのか、といった難問が立ちはだかっているのであるが。

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