日常と形式

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題を引用。

「逆に言うと」を使いこなせない大学生が目立つ訳

この題は、逆に言うとなる表現を正しく使えない大学生がおり、それが目立っているので、その理由を記事で説明する、という主張を示している。

題は著者がつけるとは限らないので、この題にどの程度著者の認識が反映されているかは不明だが、本文を読むと、逆に言うとが用いられる事例を記事の導入に用いて、それから数学教育のありかたに物申す、のような構成になっている。

著者は、逆に言うととの発言を聞いて困ると言っている。その言い回しを誤って使っている発言を見聞きする、という事だろう。著者が例示しているのは、下記のようなやり取り。

「就活で内定が取れたら、このバイトは辞めるつもりです」と公言していた大学生のAさんがバイトを辞めていたことを知った知人が、「あのAさん、内定取れたんだね」と発言

これは、内定したならばバイトは辞める、という主張から、バイトを辞めたなら内定している、は導けない(必ず正しいとは言えない)との例示であろうが、そもそも、この種の日常表現を形式論理的に解釈しようとする所に無理がある。だいたい、やめるつもりと、心理や信念の度合いや蓋然性に関する情報をつけて会話しているのに、形式的な、ならばの主張をしていると読み、それを前提した上で、形式的なの話に持って行くのは強引である。実際には、話者同士では、

  • バイトをしている事情。金銭的や時間的な
  • 内定が取れそうな可能性
  • 内定が取れない場合にバイトを辞める可能性

これらの情報を共有しており、総合した上で起こりやすさを評価してやり取りしているのであって、日常表現に形式論理の話を当てはめて論ずる際の例示として適切では無い。

逆に言うとなる言い回し、縮めて、逆にと言われる事もある。そもそもこれは、形式論理的に使われも、使う事が期待されもしていない。SNSでの使われかたを検索してみれば良い。たとえば、下記のような使われかたをする。これは、今日twitterのリアルタイム検索で確認した用法である。

  • 時間的関係の比較。例:今はこうだが、逆に言うと前はああだった
  • 対偶のように。例:Aになるためには甲という属性を有していなければならない。逆に言うと、甲が無ければAになれない
  • 裏のように。例:Aであるには甲で無ければならない。逆に言うと、Aで無いなら甲で無いだろう
  • 変化による恩恵:AであったのがBになった。逆に言うと、Bになった事による良い影響を受けられる

最初から、かっちりと形式論理的に使う事など前提も期待もしていない。話者を取り巻く情況と前後の文によって容易に正確に解釈される。もし解釈しにくいと感ずれば、質問なりすれば良い話であって、それがコミュニケーションというものである。逆に言うと、日常表現的な言語使用のシチュエーションにおいて無理矢理に形式論理を当てはめようとするのは、言葉の実際の使われかたを無視したナンセンスな見かたと言える。もし、なるべく誤解の生じぬよう、形式論理的な表現を用いてやり取りをしたいと企図するのならば、先に宣言し、その情況を設定すべきであろう。それは、学術論文の書きかたや論争や、競技ディベートのような、限定された文脈である。バイトの話のような気軽な文脈であれば、用法も気軽で良かろう。

改めて、この記事の題は、

「逆に言うと」を使いこなせない大学生が目立つ訳

このようになっている。これはつまり、何らかの現象について、その理由を説明するとの主張である。ここで現象とは、

  • ある表現を正しく使えていない(と著者が評価する)
  • 特定の属性(大学生)を有する人がいて
  • それが目立っている

というもの。ここで著者は、それぞれを論証しなければならない。すなわち、

  • 逆に言うとなる表現が使えていない事の定義と評価方法
  • 目立つなる現象の定義と評価方法

これを設定した上で、現実に成り立っているのを確かめるべきである(大学生という属性を持つ事の論証は比較的容易なので省略)。当然その論証は、形式的な数学的推論のみや、著者の観察範囲での何となしの評価では足りず、実証的方法を用いなければならない。もし割合に言及するのであれば、定量的評価も必須であろう。だいたい、目立つと簡単に言うが、それはいかなる意味なのか。割合が大きい事か、それとも、その条件を持つ者が有名であったり情報流布に長けていたりする事を言うのか。要するに、集団の大きさなのか、それともインパクトを生ぜしめる能力を言うのか。日常的に、目立つと言えば、その両方を指し得るであろう。

著者が記事中で書いているのは、大学在籍中の入試問題の内容や、別記事に寄せられた意見の紹介、直接は関係しない、国ごとの意識調査の結果の低さ、くらいである。こういう特徴を持つ人をこのように測って、その結果、これくらいの割合がいて……とはなっていない。

ここで、いや、著者の問題意識は、暗記教育の弊害と、数学教育のありかたであって、具体的な、日常表現における用法の話は本質的では無い……などと言うだろうか。もしそう主張するのであれば、題や、記事の導入部で、特に関係の無い、根拠も大して示せない話をしておきながら、ほんとうに主張したい所に論題を持って行った、と認めるのと同じである。記事として整合的で無い作りかたをしている。

著者は、論理の問題が解らない大学生がいるのを憂い、その事由として、

背景には、「数学に関する論理の問題は大学受験には無関係」、「数学は計算して答えを出すもの」という困った迷信があるのではないか。

このように推論している。それを主張する流れの導入として、逆に言うとの使われかたを例示しているのであるから、出来ていない大学生が目立つ所の論証を疎かにするのが通るとは思われない。自ら繋げようとしているではないか。

後半における、暗記教育の弊害を訴える部分でも、

  • 暗記教育が広がっている
  • 広がっている事で弊害が生じている

この両方について、きちんと論証されてはいない。教え子の教員から聞いた話など、何の論拠にもならない。ところで、教え子の教員が200人と書いているが、200人に満遍なく訊いたとは書かれていないし、教員による、別の教員の評価をただ聞き取っただけでは、調査のきっかけとはなっても、質の良い証拠にはならない。

数学を学ぶ際は、公式なり定理なりをスタンプを押すように憶えるよりは、それに至る論理構造や導出を把握するのが望ましく、面白味が無く無味乾燥な環境よりは、のびのび学べる授業であったほうが良い、という著者の一般的な主張には特に異論は無いが(反対する者もいるだろう)、そういう理念を掲げる事は、

  • いまどうなっているか
  • 良質な証拠によって
  • 他の人と共有して確かめる

といったプロセスを疎かにして良い理由とはならない。それは、数学や数学教育とも重なる、科学や科学教育と密接に関わる所なのだから。