かえってくる

本質的な議論をしたいのか、空虚な言葉を吐きたいのか - ブログ版ききみみずきん - Yahoo!ブログ
科学について考えるのに科学者リンク先の「科学者不在」の「科学者」とは文脈上、放射線問題に近い自然科学系の専門家の事を指す、と思われますを呼ばないで議論を行うとしたらそれは適切では無い、とか、島薗氏の科学の論じ方に違和感を覚える事がある、という意見には同意します。けれど、その他の部分について、首を傾げざるを得ない表現があります。

ただ、まともな科学の出来ない人は、人間としてもまともではないので、お得意の詭弁を弄したり youtube のお笑い動画を制作するようなシンパを使って小林先生を中傷しないか心配です。

追記:この部分について、ヤムラさんにコメント欄でご意見を頂きました。
たとえば、この強調を施した部分は、どういう意味でしょうか。文字通りに取ればこれは、人間としてまともでは無い事は無いなら、まともな科学の出来ない人では無い、と言っている事になります。単純化して、世の中が、まともな科学が出来る/出来ない、人間としてまともである/で無い、と分けられると考えて、日常的な言い方で表現すると、人間としてまともな人なら科学の出来る人だ、と言っているのと同じようなものです。
これはあくまで日常語を用いた表現で、そのような割り切った形式的な、極端な主張をしているので無い、と言われそうです。けれどそうだとしても、「まともな科学が出来るかどうか」と「人間としてまともかどうか」が密接に関連していると言っているとは看做せるでしょう。で無ければそんな表現をする意味が無いからです。
で、やはりそれは、とても乱暴な意見に見えます。と言うのは、「人間としてまとも/まともで無い」と評価する事が、非常にむつかしい問題だからです。それは社会的な評価の仕方等も絡んでくる、複雑な話です。それを考慮する事無しに、「人間として」と語るのは、危ういように思われます。
コメント欄(2013/1/14(月) 午後 4:18)より。

Manachan@柏さんの分析で初めて科学者と社会学者のズレを意識することが出来ました。

「科学者」と「社会学者」が対置されているのが理解しにくいです。これは要するに、「社会学者は科学者では無い」と認識なさっているという事なのでしょう。ここでは、「科学者」をかなり狭い意味でとっている(自然科学限定?)事がうかがえますが、必ずしもそれは諒解が得られるものでは無いように思います(私の認識では、社会学者も心理学者も科学者です)。

私が文系の研究者に対して違和感を持つのは「・・・だと思う」という表現が多いことです。本当は社会学のうち結構な領域で実験や分析が可能だと思うのですが、思想が先走っている印象なのです。

「だと思う」という表現が多いという「印象」でもって、「文系」を語っています。「だと思うという表現が多いと思う」と言っているようなものです。
これはブログのコメントであって学術研究では無いので、根拠不要で語って構わないという事なのでしょうか。確かにそういう面もあるかも知れません。「思う」という表現を使うな、と言ったら何も書けなくなる(私もここで使っている)。しかしこれは、「文系の研究者」という相当大きな集団についてのネガティブな評価ですから、それを支持する根拠ってありますか?と問われたら、それなりに説得力のある答えを示す必要があるでしょう。

例えば「体罰道徳心を失わせると思う」というような話も、道徳心に関して数値化出来る指標を設定し、体罰を受けた集団と受けない集団を分析する方が説得力のあるデータが取れるはずなのに、自分は体罰が嫌だったとか、体罰で鍛えられたとか、思想や体験で語りたがる傾向を感じるのです。

(強調は私)「思想や体験で語りたがる傾向を感じる」というのを、個人の体験に基づいて語っています(「感じる」と書いている)。これでは、実証を重んずる計量社会学や社会調査等の人にとっては、たまったものでは無いでしょう。じゃあその「語りたがる傾向」という印象を、数値化出来る指標を設定して調査・観察した結果によって支持出来たのか、と問われたら、どう答えましょう。個人の意見であるからそのような根拠を提出する必要は無い、と言うでしょうか。
自然科学や、それに従事する人々が誤解される事を憂い、誠実な活動をしている(ここでは、その評価自体が妥当かは措く)人が中傷されている事に反論するのは意義のある事だと思いますが、勢い余って他分野に対して根拠不充分な評価を行うのは危うい、と私は考えます。
ここで一つ、手許にある社会学の本より引用します。

●経験科学としての社会学
 ただここで忘れてはならないのは,社会学が経験科学の一部門であるかぎり,常に実証性を失ってはならないし,また理論のうえで経験的な妥当性の裏づけを欠くことはできないということである。方法論的に哲学的な基盤をもつとしても,その例外ではない。
 そして事実,社会学は,こうした科学的な有効性を獲得するために,絶えず現実と切り結び,また理論的にも方法のうえでも努力を重ねてきた。(略)
倉沢・秋元・岩永[編著]『社会学入門』P16・17

(略)それに対して,実証的な認識の仕方とは,他者が疑義を差し挟む余地をでき得る限り少なくした命題あるいは概念を,観察された事象に対置することである。そのような命題や概念であれば、他者に対して自分の認識の結果を正確に伝えることができる(伝達可能)。また,他者が同じ事象を別の環境で見た結果と比べてみることも容易である(比較可能)。つまり実証的なものの見方とは,伝達可能性,比較可能性を十分にもった認識の方法のことだといえるのである。(中略)特に,二番目の例からもわかるように,個別的,印象的な把握は,より一般的で具体的な認識の結果によって覆ってしまうことすらある。このように,実証的な認識とは,印象的ではなく具体的な,個別的ではなく一般的な,そして価値的ではなく没価値的(価値自由)な認識でなければならない。そのためには感性的,感覚的な観察や表現を極力排し,具体的で客観的な見方,とらえ方を心がける必要があるのである。
倉沢・秋元・岩永[編著]『社会学入門』P29・30

社会学を標榜しておきながら非実証的な、直感・直観以上の根拠を示さない言説というのはあるのでしょう。それを批判的に検討していくのは意義ある事だと思います。しかし、だからと言って、その分野全体がそうである、と即言える訳ではありません。本当にそれを主張したいのなら、その主張に見合うだけの証拠を提出する必要があるでしょう。もし証拠が無いのであれば、「どうして証拠も無いのにそういう事を言うの?」と問われるでしょう。