武技をフィクションで表現する事―艦隊これくしょんと弓の話、を眺めて―
アニメ『艦隊これくしょん』(以下「艦これ」と略す)において、登場キャラクターの弓を射る動作について、弓道経験者と思われる人が、弓道の観点からその動作を検討し、それを弓道警察と称してtwitterに投稿した事から、ちょっとした騒ぎが起こったようです。
その発端となったと思われるつぶやきがこちらです⇒http://twitter.com/PG1004/status/553190063287197696
※弓道警察という語自体は、ここら辺まで遡れるようです⇒http://twitter.com/RED_ROADRACER/status/546637807335137280
この議論と言うか騒ぎに関して、色々な認識の人が色々な立場から発言や主張をし、なかなかややこしい事になっているみたいです。
話題の中心が武技をフィクション内で表現する事であり、自分もそこには関心を持っていますので、ちょっとここで、私の考えを書いてみようと思います。
とは言っても、色々な観点からの議論を綺麗に整理して纏め上げる、というのは今の私の能力では出来ない事なので、この観点は重要ではないか、ここは押さえておくと良いのではないか、という所をいくつか挙げてみる、というかたちで書きます。取り留めのない内容ですが、そういうものだと捉えて貰えればありがたいです。
※ここでは、アニメ『艦隊これくしょん』のストーリーに関わる内容が書かれる場合があります。未見の方はお気を付け下さい
「弓道」という記号
弓道というのは、ある武道の一分野であり、古来伝承されてきた戦闘技術に基づき、現代的なアレンジが加えられ形成された競技です。
それで、弓道を弓道たらしめる、あるいは、社会一般に弓道を想起させる色々の要素があります。たとえば服装・所作・道具(弓道の場合には弓矢。広く取れば服装も入る)・場所(弓道の場合には弓道場)等です。これらの要素が主に視覚的に表現され、これは弓道だろうかとユーザに感じさせます。
競技として確立されているほど、ルールなどの決まり事が強固に、厳密になっていくと思われます。そして、細かい動作・所作や服装などが、競技において守るべき記号として体系付けられます。そうなると、精密に決められた記号からズレたものが、その体系(ここでは弓道)において誤った動作や服装として評価される事になります。それが経験者にとっての違和感となる訳です。決まり事が精密になるほど、知識を持たない人にとっては細かい事として感ぜられ、経験者にとっては守るべき重要な事と捉えられるので、同じ視覚的な情報を得ても、その評価は大きく異なったものとなる、と考えられます。
これは特に、武道武術に限った事では無く、芸術などでもあるものです。
赤城と加賀は「弓道」をしていたのか
発端となった、アニメにおける描写は、登場キャラクターである赤城が弓を射る、という場面です。ここで考える所は、この場面で赤城(と加賀)は弓道を行っていたのか、という事です。つまり、弓道という具体的な、実在する体系(競技)に則った動作を行っていたか否か。
ここの捉え方によって、場面の評価は異なってくると思われます。もしこれが、弓道そのものを行っていたと考えるのならば、実在の弓道の決まり事に則っているかどうかは、正確に考証すべき所として、作品のリアリティに関わる重要な部分として捉えられます。反対にこれを、弓道っぽさをイメージさせる動作くらいに考えれば、非経験者が観てそれっぽいと感じさせれば充分、というものと捉えられるでしょう。
動作の「合目的性」と、置かれた情況・局面
この話が出る前、昨年の事ですが、アニメのイメージビジュアルが発表された際に、加賀が片足を上げて弓を射らんとする場面について、弓道的な観点から指摘がなされる、という事がありました。多分、今回の話を見て昨年の事を思い出した人も多いと思います。
昨年のビジュアルについて考えると、片足を上げて構えていますから、恐らくその局面として、戦闘中を想定していると思われます(片足を上げているのは、移動中などの態勢変更中の躍動感を表現していると考えられるから)。さてこの場合、競技としての弓道の動作を忠実になぞる必要があるか、という観点を考える事が出来ます。つまり、実際に戦っている際に弓道の射法を順守する事がリアルなのかという見方です。
動作には、目的があります。今は艦これの話題で、戦闘中という場面を想定していますから、その目的というのは、当面の最終目的(一つのフェイズの終了)である、戦闘に勝利する、という所から辿って、
戦闘に勝利する
↓
攻撃を命中させる
↓
加賀の武器は弓矢である(実際には矢が他の兵器に変化する)
↓
矢を正確に当てる(変化した兵器が有効な攻撃になるようにする)
↓
矢が正確な弾道を描くようにする
↓
矢が正確な弾道を描くように弓を引き矢を発射する
というように一応表現出来るでしょう。そうすると、ここでの目的とは、
矢が合理的な弾道を描くように弓を引く、ように身体を使う
このように表せます。つまり、その動作が、今の目的に適っているか、言い換えると合目的的であるか(目的 に 合っている よう(的) であるか)――合目的性があるかという事です。
さて、その観点から言えば、戦闘中に弓道という競技の動作を守る事が合目的的である、とは必ずしも言えません。そもそも、弓道の基となったであろう弓を用いた戦闘というのは、近代兵器で武装した少女が海上を滑走しながら超自然的な武器(弓矢)を使用するなど想定していないのは当然です。ですから、その情況において弓道の動作を守る事が、作品のリアリティに直接関わってくるか、という所は、冷静に考える必要があります。
射手と弓矢の構造機能
一つ前の観点を踏まえると、いわゆる弓道の動作の決まり事を守るのがリアルとは必ずしも言えない、と考えられます。ではその次に、どのような描写であればリアルかという見方が出てきます。それを考えるためには、フィクションの世界のどこまでを、私達が住む現実世界と共通していると看做すかをまず見る必要があります。具体的には、
- 登場するキャラクターの身体構造・機能は現実と同等か
- 用いられる武器の構造・機能、材料は同様か
などです。つまり、艦これには、人間の形をしたキャラクターが出てくるが、そのキャラクターが有する身体は、果たして現実に存在する私達が持つ身体と同じような解剖学的構造や生理学的機能を持つのか、キャラクターが持つ武器――今は弓矢――は、現実に存在する和弓と同じような材料を使い作られた、同等の物理的特性を持つ物体であると考えるのか。
そもそも艦これは、全くもって現実世界とはかけ離れた世界設定です。海上を少女が滑走する、という一点からもそれが言えます。で、そういう、現実との乖離を踏まえつつも、どこまでを現実世界と同じようであるかと考える。海上を滑るという現実には起こり得ない運動は取り敢えず措いておいて、弓を射るという動作に関しては、現実世界の自然法則と人間の骨格構造を踏まえた動きにしたい、というような設定というのは当然考えられますし、私はそれも、創作の自由さであり豊かさであると考えますが、その設定の線引をどこにするか、という所に了解をとっておかないと、なかなか議論は噛み合いません。一つの極端には、弓道着のような格好をして和弓を構えているのだから、そこは現実世界に即して描写すべきだという意見があり、今一つの極端には、そもそも人間が武装して海の上を自由に動き回るという非現実的な設定なのだから、弓をどのように射ろうがどうでも良いという意見があります*1。
記号体系のばらつき
もし、キャラクターが弓道を行っていると想定した場合には、その弓道という競技の体系に即した描写であるかが、リアルさの指標になるだろう、という事を前に書きましたが、そう考えた場合にも、競技のばらつきは踏まえる必要があるでしょう。
武道にしろ武術にしろ芸術にしろ、同じ○○道・○○術と表されていても、その中に色々の会派があって、それぞれで良しとされる動作が異なる、つまり、記号としての価値付けが異なる、という場合があります。今回の話においても、弓道の観点からの指摘に対し、弓術の観点からはこう言える、というような意見がありました。同じように弓を用いる流派でも色々なものがあるから、描写された動作は必ずしも間違いとは言えない(という事は、必ずしも正しいとは言えない)のでないか、という指摘です。これは重要で、武術・武道などは、色々な経緯や争いなどがあって様々な分派が生まれてきた、というような歴史的な事情もあり、それこそ、どのような動作が良いかは千差万別、場合によっては一つの動作がその会派の体系の根本に関わる、という事もあります。
作品の「テーマ」
創作におけるある動作の描写を評価*2する場合に、その動作が作品のテーマにどのくらい近いかという観点があります。今は艦これにおける弓道ぽい動作の話なので弓で考えると、もし作品のテーマが、そのものズバリ弓道であれば、当然、弓道という競技の決まり事をきちんと踏まえているか、が、作品の出来の根本に関わる部分として評価されます。場合によっては、弓道における△△流、というように、より具体的で細かい設定がある事もあるでしょうし、その時には、実在する当該の会派の伝承や教本などにいかに忠実であるか、が評価を左右すると言えます。たとえば合気道であれば、単に合気道と言うだけで無く、本部系か養神館か西尾スタイルか富木スタイルか岩間スタイルか、というような違いで、具体的な動作がかなり異なる場合があります。それらの教えに忠実であるかで、よく調べられているなという、いわゆる考証の観点からの評価がなされる訳です。
指摘、事実の記述、批難、批判、ツッコミ、嘲笑
これは、意見を言う際の態度に関わる事です。つまり、同じ意見を言うのでも、その言い方によって、受け取る側の印象が異なってくる。丁寧な口調で淡々と書くか、バカにするような言い方をするか。たとえば、「草を生やす」(w をつける)というのは、今では結構普及した表現だと思いますが、文脈によってはこれは、ものすごく小馬鹿にしたような印象を植え付けるでしょう。
「警察」という表現
上に関連して、今回の話では、弓道警察という表現が用いられました。この表現だったのは結構重要だと思います。警察というのは現代社会において、かなり強いインパクトを与え得る語だと思います。権力や強制力を想起させ、誤ったものを正す組織であるという印象。たとえ発言者が、自虐なりも含んだ冗談のつもりで表現したり、何らかの元ネタをもじって発信したのだとしても、捉える側が強い印象を受けてしまって、反発心を惹起した、という事もあるのかも知れません。元ネタがあったとして、それを知っている、踏まえる、とは限りませんからね。その意味では繰り返し、ものの言い方というのが重要な点であるでしょう。
キャラクターのディフォルメ
もしかすると、キャラクターのディフォルメの度合いというのも、動作の評価に関わっているかも知れません。たとえば、キャラクターが同じ格好をし、同じような道具を同じような場所で用いていたとしても、頭身が小さかったりすると、印象が異なる可能性があります。
作風、キャラクターデザイン
全体的な作品の方向性も、印象形成に関係しているでしょう。ストーリーがギャグテイストがシリアスか、あるいは、キャラクターデザインが、リアル系かそうで無いか、というのも、動作に要求する現実さという所に関わるのだと思います。
その観点からすると、アニメ『さばげぶっ!』は興味深い作品だったと思います。
※以下、『さばげぶっ!』のストーリーについて記述します
『さばげぶっ!』は、全体的にはギャグテイストで、エアソフトガンを用いて戦う(遊ぶ)というストーリーですが、何故か銃からマズルフラッシュが出て排莢されたりします。これは、エアソフトガンを使っているがイメージの中で実弾を使って戦っているような描写をしている、というような設定で、それをメタ的に作中で説明する事によって、お約束として、リアルさと荒唐無稽さを視聴者にあらかじめ共有させる、というような試みを行っている、と見る事が出来ます。他にも、弾倉が空になった事を見抜いた場面で、ホールドオープンしていない所(銃を見ての判断では無く、撃った弾数を数えて空になったと判断した)に突っ込まれるのを見越してナレーションで説明したりなど、面白い構成をとっていました。これは、銃器を模したトイガンをテーマにしつつ、虚偽とリアルとを織り交ぜて視聴者ともどもメタな観点から楽しむ、という興味深い作品だったと思います。
まとまらないまとめ
フィクション(に限りませんが)に対する評価というのは、ここまで見てきたような色々の観点が絡み合い、それぞれの人の経験や知識に基づいた重み付けがなされて行われる、とても複雑な現象なのだと思います。その人の好き嫌いも関わってくるでしょう。ですから、それら観点をなるだけ解きほぐして個別に考えておく、という事が重要になるのだと思います。
私は以前、フィクションにおいて武技を表現する事に関して、「刀の持ち方」に焦点を当てて記事を書いた事があります。こういう刀の持ち方などがされていたら気になる。標準的な持ち方はこうだろう、といった内容です。そこで気を付けたのは、
- バリエーションを踏まえる
- 平均的にはこう持つ流派が大勢だろうが、剣術の流派は膨大で歴史も長く、そうで無いやり方もある事を押さえておく
- その描写の不備が作品全体の価値を下げる訳では無い
- 剣を扱うという動作が作品中でどのように位置付けられているか、という所が絡むから、その描写自体が全体の評価を左右するとは限らない事を押さえておく
といったような事です。その記事は、町田さんによる、銃の持ち方に関する記事、に便乗して書いたものですが、目的としては、誤りを正すといったような大袈裟なものでは無く、知っている人はこういう所を見るし、もし描写としてのリアルさを求めるならここがポイントになるだろうという所を紹介する、といった感じでした。けれど、そういう指摘をするものというのは、たとえば具体的な作品名を出したりすると、その作品全体を貶したなどと誤解されたりしがちなので、かなり慎重にやらなくてはならないな、と思いながら書いたのでした。ですから私は、悪い例と思われる描写がある作品を挙げるのでは無く、良い感じに描写出来ている作品を挙げる、というやり方をしたのです。
今は、twitterなどのSNSが広く普及し、ごく短文で意見を発信するのがとても手軽に出来る情況ですので、主張が言葉足らずになってしまう事もあるし、一旦話題になると、急激に広まり、補足や訂正が追い付かなくなってしまう、という事もあるのでしょう。その観点からは、意見を発信するメディアの特性を押さえておくというのも重要ではないかと思われます。