【試案】ニセ科学の構造

はじめに

ニセ科学という概念について、改めて整理してみます。

他にあまり見られない方面からのアプローチだと思います。これは、菊池誠氏など、よく知られた論者が、ニセ科学に関する概念の整備を怠ってきたと私が考え、その怠ってきた箇所に関するアプローチです。考え自体は、ブログやtwitterで書き留めてきたものでありますが、ここで、整理したものをまとめておくのも意義があると思い、書くに至りました。

現象や因果関係に関する問いかけ

※医学領域では、クリニカル・クエスチョンという形で問われる

  • 薬剤○○は疾病△△の予後を改善するか
  • 属性□□を持つ集団において、別の属性××を持つものの割合が大きいか
  • 属性 甲 の量が大きいほど別の属性 丙 も大きい、あるいは、甲 が大きいほど 丙 は小さい、といった関係があるか
  • 因子αを変化させる事によって、変数βを変化させる事が可能か
科学の方法

現象の構造や因果関係を解明するための、科学の分野において整備・確立された方法

  • 測定法
  • 道具(理論的)
  • 道具(実体的)
  • 過程
  • 制度・手続き

それぞれを具体的に示す。

測定法
  • 実験
  • 観測
  • 観察
  • 調査
道具(理論的)
  • 統計解析
  • 尺度構成
  • 因果推論

道具(実体的)
  • 各種測定機器
  • 望遠鏡や観測ロケット等
  • 調査票
  • 統計解析用アプリケーション・ソフト
過程
  1. 仮説の設定
  2. 仮説を確かめるテスト命題の設定
  3. テスト命題から導かれる作業仮説の設定
  4. 作業仮説を調べるための測定法の計画
  5. 測定の実施
  6. 得られたデータの解析と評価
制度・手続き
  • 査読
  • 他研究者の追試による確認
科学的な問い

現象や因果関係への問いに、それまでに科学の方法によって得られた知見が組み込まれているものを、科学的な問いと表現する
※科学の知見が組み込まれていない問いを科学的な問いと言わないとはならない

  • 薬剤 A は、2型糖尿病の予後を改善するか
  • ヒトの集団において、医学的研究と生物学的探究によって発見された ABO式血液型なる属性と、別の属性たる性格特性とに関連はあるか
現象や因果関係に関する、評価時点での科学的知見

科学の方法によって得られた知見を科学的知見と表現する。科学的知見は、完成という事が想定されず、常に誤り得る(可謬主義)。

標準的知見として確立
ポジティブ
その問いは成り立っているであろう
ネガティブ
その問いは成り立っていないであろう
物議を醸している:controversial
ポジティブ・ネガティブ双方の証拠が提出されており論争中。標準的知見として確立はされていない
証拠が不十分
ポジティブ
問いを支持する証拠が提出されているが、不充分
ネガティブ
問いを否定する証拠が提出されているが、不充分
不充分とは
追試による確認がなされていない・サンプルサイズが不足している、等々
そもそも証拠の提出が無い
問いを発する者はいても、それを実証すべく研究する者がいないため、検討に値する証拠自体が無い
科学様表現に対する評価

科学的な問いについて、疑問形から言い切りのかたちに変換する。それを便宜的に、科学様表現と表現する。

  • 薬剤 A は、2型糖尿病の予後を改善する
  • ヒトの集団において、医学的研究と生物学的探究によって発見された ABO式血液型なる属性と、別の属性たる性格特性とに関連はある

それら表現について、(評価時点における科学的知見に基づき)評価をおこなう事が出来る。

成り立つ
前節、標準的知見として確立されている:ポジティブ
成り立たない
前節、標準的知見として確立されている:ネガティブ
不明
前節、そもそも証拠の提出が無い

加えて、前節、物議を醸している:controversialものや証拠が不十分なものを、便宜的にグレーゾーンと表現する事が出来る。

ニセ科学

これまでで、

  • 科学的問いの設定
  • 科学様表現の設定
  • 科学様表現の評価

これらが揃っている。そして、

評価時点における科学的知見と乖離した科学様表現

を、

ニセ科学

と呼ぶ事とする。

科学的問い
ヒトの集団において、医学的研究と生物学的探究によって発見された ABO式血液型なる属性と、別の属性たる性格特性とに関連はあるか
科学様表現
ヒトの集団において、医学的研究と生物学的探究によって発見された ABO式血液型なる属性と、別の属性たる性格特性とに関連はある
科学的知見の検討
ヒトの集団において、医学的研究と生物学的探究によって発見された ABO式血液型なる属性と、別の属性たる性格特性とに関連は小さい(実質的に、無いと表現される場合もある)という知見が確立されている(evidence:縄田『血液型と性格の無関連性』)
科学的知見の検討:慎重
ヒトの集団において、医学的研究と生物学的探究によって発見された ABO式血液型なる属性と、別の属性たる性格特性とに関連があるという知見は確立されていない(evidence:縄田『血液型と性格の無関連性』)

すなわち、現状において、科学様表現:

ヒトの集団において、医学的研究と生物学的探究によって発見された ABO式血液型なる属性と、別の属性たる性格特性とに関連はある

は、ニセ科学であると評価出来る。

前述の、

評価時点における科学的知見と乖離した科学様表現

この文章の部分をそれぞれ、

  • 科学様表現:科学のよう
  • 評価時点における科学的知見と乖離:科学で無い

とすれば、日常語を用いて簡便に、

科学のようで(かつ)科学で無い

ものがニセ科学である、と表現出来る。

コンテクストへの配置

評価時点における科学的知見と乖離した科学様表現

ニセ科学と呼んだ。このような表現は、配置される社会的・文化的コンテクストによって、次のように分類出来る。

その表現が、我々の住む現実世界において成り立っていると主張する
ヒトの集団において、医学的研究と生物学的探究によって発見された ABO式血液型なる属性と、別の属性たる性格特性とに関連はあると主張する
その表現が、フィクション等における法則等として、つまり仮構世界において成立するものとして設定される
  • いわゆるサイエンス・フィクションの分野で構築された世界設定
  • 現実世界では成り立っていない
  • 仮構世界の物理法則や、現象の構造について記述したもの
  • 現実世界において確立された科学的知識を表現に組み込んでいるもの。たとえば、血液型性格判断が成り立つ世界

前者は、意図的あるいは非意図的に、その表現は、私達が住むこの世界において成り立っていると主張されるものであり、後者は、あくまで仮構的な世界上の理論等として設定されたものである。

受け手の捉えかた

前節の分類、つまり、ニセ科学的表現が、どのようなコンテクスト上に配置されるかは、一般に発信者の意図に依存する。それが実際に成り立っていると主張するものは、意図的(騙すため)であろうがそうで無かろうが(本気で言う)、実際に成り立っている事を受信者に認識させたいという所が共通している。

対して、フィクション上の設定などでは、そのような前提は無い。特に、それが仮構世界構築上のコアとなる部分の設定であれば、より積極的に仮構だと認識してもらいたい場合もある。仮構としての設定を共有した上で、現実世界において成り立っているものとのズレを楽しもうという志向がある。

ところがこれは、コンテクストを共有している事を前提としている。たとえば、SF小説等で、作者は仮構的なものとして意図的に設定したが、読み手はその事を認識せず、現実世界において成り立っていると考える場合があり得る。つまり、フィクションを真に受けるという類のもの。そもそも発信者と受信者が、設定や意図を悉く共有して情報伝達をおこなう事など無いのであるから、そのようなズレは、充分に生じ得る。

また、そのような経緯で ある種の知識を手に入れた人が、当該仮構世界を意識する事の無い人に対して情報を伝播させる可能性を持つ。誤った知識を、いわゆるトリビア的なものとして伝える、というのは、科学っぽい話に拘らず、しばしば起こるものである。

つまり、仮構的な設定であるとは、あくまで発信者の認識と、受信者に既有の知識の度合いとによって共有される可能性を持つという事であって、実際にどう受け取られるかは相対的に決まってくる事柄である。

広く情報が伝播されていけば、もはや発信者の意図など、全く認識されなくなるであろう。そうすると、ニセ科学的表現が、元の発信者の意図に反して、事実として受け取られる可能性がある。

ニセ科学という語

論者の中には、科学のようで科学で無いものをニセ科学と呼び、先に挙げたような、フィクション上の設定など、科学的には誤った表現という事を共有しつつ作品を楽しむなどする、という場合に設定されるようなものを、疑似科学と呼ぶ向きもある。例:大阪大学菊池誠教授

仮に、ここまでの概念の検討を踏まえつつ、前段落で書いた事を採用するとすれば、疑似科学とは、ニセ科学の一部であると言える。逆では無い。
つまり、ニセ科学を、科学のようで科学で無いと定義し、疑似科学を、フィクションの設定等で用いられるものとするならば、それは、

科学のようで科学で無く、かつ、フィクション等で用いるよう、仮構として設定されたもの

というように、ニセ科学に他の条件が加わった概念である、と言える。

この言葉遣いに違和感を覚える人がいるはずである。つまり、ニセの中に疑似があるという部分に対し、自身の語感に照らして、おかしい、と感ずる人がいると思う。

これは、ニセ科学の語を、より一般的な、あるいは、より条件を少なくした

科学のようで科学で無い

という概念に充てているから、である。そうすれば、その条件を備えつつ、更に別の条件を付加した概念は、ニセ科学の内側にあるものだ、と看做さざるを得ない。

論者にも、色々な主張がある。ニセの語と疑似とに、価値判断的なニュアンスの違いを認めて使い分ける者や、疑似に否定的な意味合いを認める者もいる。多分に語感の問題である。

いずれの語を用いるにしても、今はどの概念を対象としているかをきちんと把握する事が重要である。その意味においては、語形は何でも良いと言える。まずは、概念を共有しておくべきである。※その意味においてはと書いたのは、概念をどのように表現するかは、不案内な人に説明する際には最重要事項となるから。実際的には蔑ろに出来ない部分である

簡潔さを犠牲にして、より具体的に記述するとすれば、たとえばまず、

科学のようで科学で無い

ものをニセ科学と呼び、その内、

受信者に真実であると認識させる事を志向

するものを、

説得志向ニセ科学

とでも呼び、

仮構世界上の設定を志向

するものを、

設定志向ニセ科学

などと呼ぶ事も、一応可能だろう(※そう呼んだほうが良い、などとは全く思っていないので)。これは、語に発信者の意図を組み込んだ表現である。
更に、前者について、発信者が

  • ニセ科学をほんとうのものだと信じこんでいる(つまり、発信者は科学だと信じている)ケース
  • ニセ科学だと知っているケース

この2種に分けるのも可能だろう。前者は、その(誤った)知識を広める事に社会的な意義がある、と認識しているなどのケース。たとえば、(科学的には)効果が認められていない、あるいは効果が無い事が確かめられた療法について、実は効く証拠があると思い込んでおり、その療法の普及こそが沢山の命を救う、という信念を持っているような場合。
後者は、誤っている知識を、誤っていると知りつつ、自身の利益獲得のための手段として用いるケース。いわゆる詐欺の手段にニセ科学を用いる事が、それにあたる。

これ以外にも、ニセ科学をほんとうのものだと信じている(つまり科学だと思っている)が、特にそれを積極的に広めるでも無く、単純に知識として有していて、話題に出れば話す、くらいの場合、が考えられる。要するに、特に拘るでも無く、何となく間違った知識を持った人と言える。カジュアルにニセ科学を信じているとも言えるだろう。

ニセ科学を指摘する事の意義

前節までに、ニセ科学のバリエーションについて考えた。この事は、

ニセ科学ニセ科学であると指摘する事の意義

にもバリエーションがある事を示唆する。

最も解りやすいのは、詐欺的行為の道具としてニセ科学を用いる者がいる場合。特に医療分野では、効かないと判っているものを(知りつつ)効くと称して信じさせ、与える事は、直接の健康被害に繋がる(健康被害をおよぼすプロセスには、与えるもの自体が害を及ぼす場合と、与えるものには益も害も無いが、他の必要な処置を遠ざけた結果被害を被る、という場合がある)。

次に、誤った知識がほんものだと認識しており、かつ、それを積極的に普及させようとする場合。意図の部分は異なっているが(騙そうという意図の有無)、発信者が積極的に情報を伝えようとするのは同様。また、当人は、それに社会的な意義があるとの信念を持っているため、書籍の執筆や講演などの手段を用いて知識を普及させようとする。あるいは、自分が体験した事に基づいている、つまり、自分が使ったら効いた、といったような信念が形成されている場合もあるだろう。

誤った知識を信じてはいるが、そこまで積極的に普及させようとはしていない場合もある。フィクション上の設定が志向されたニセ科学をほんとうの知識だと信じた、という経路の人もいるだろう。先に書いた、カジュアルに信じている層である。

このように、信ずるに至った経緯や、普及させようとする事の動機づけなどにも、バリエーションがあり、色々の層に対し、色々のアプローチが考えられて良い。
ごくカジュアルに信じている人なら、実はそれって違っているのですよ、といった程度の説明で納得されるかも知れないし、医療問題に関わるようなものだとすると、情報発信とそれにともなう健康被害をもたらすような対象は、告発され、法的に厳しく罰せられる可能性もある。騙すという意図があるなら、詐欺罪が適用される場合もあるだろう(それには法的な議論が関わる)。

噛み合わない議論

ニセ科学に関する議論において、概念を共有していないが故に、噛み合わない場合が見られる。

将来の実証可能性を訴える
ニセ科学であるとの指摘に対し、いまは実証されていなくても、将来実証される可能性があるというように反論するケース。しかし、ニセ科学というのは、評価時点において科学的知見と乖離した科学様表現の事であるから、将来実証される可能性がある事と、現在実証されていない(か、成り立たないと実証されている)事とは矛盾しない。※科学は可謬主義であるから、否定の実証が、将来肯定の実証に転ずる事は、原理的には否定出来ない(実際には、蓋然的あるいは確率的な議論になるのであるが)
科学が絶対に正しい訳では無いと主張する
科学が絶対に正しい訳では無いので、ニセ科学と言われたものが、実は成立しているかも知れないではないか、と主張する類のもの。科学は可謬主義であるから、そもそも、科学は絶対に正しいといった主張自体をしない。ニセ科学との評価は、その科学様表現は知見と乖離しているという評価なのであるから、これは、現象や因果関係が実際成立しているかとは、別に議論出来る所である。論理的には、科学が間違っていてニセ科学が正しい場合があるが、それは、ニセ科学であるとの評価とは異なる問題である。
おわりに

私が、ニセ科学概念に関心を持って、議論に参加してから、10年以上経ちます。
ニセ科学の定義である、科学のようで科学で無いという概念に着目するアプローチに触れ、その具体例を知り、これは重要な概念と議論だ、と思ったのですが、当初より、もう少し、概念や用語を整備したほうが良いのではないか、とも考えてきました。特に、ニセ疑似の語の採用に関する部分とか、議論の射程の範囲をどこまでと考えるかなど、色々と検討すべき余地がありました。

昨今、twitter等のSNSが普及してきた事もあり、情報伝達の速さと広さが格段に上がっています。私は、twitter上をニセ科学でよく検索し、それがどのように認識されているのか、という事を確認しているのですが、最近知った人が、それほど調べずに対象について論ずるものがしばしば見つかります。

そのような、新規の議論参加者に対しても、前から参加しているが、用語がごちゃごちゃしているように感じている人に対しても、議論の中心となる概念に関して整理しておく事が重要である、と考えています。そして、最初にも書いたように、そのような整理・整備は、充分にはなされてこなかったと思うのです。中には、共通の定義は無く、俺定義が云々とする意見もありますが、

議論において、中心概念の定義を蔑ろにして良い道理はありません。こういう対象について、自然科学のような定量的・計量的定義は出来ない(あるいは困難。確率統計のベイズ的なアプローチを試みる者もいる)というのは判りきっている事ですが、かと言って、用語の設定と概念の整理、そしてその共有を放棄すべきではありません。その意味で、上記の菊池氏のような物言いは、怠慢であり開き直りの発言と取られてもしかたの無いものです。

自然・人文・社会 科学のいずれにおいても、いや、科学に限らず、言語を用いたコミュニケーションでは、語の表現と意味合いについてコンセンサスを取っておくのは、最も重要な所です。ニセ科学に関しては、より詳細な概念整理がほとんど見られないので、私が試みた次第です。それが出来ているという心算は全くありませんが、このようなアプローチもあるのだ、というように受け止めて頂けると幸いです。

参考文献

科学的方法や、ニセ科学について考える際に、参考にする価値がある本を、ここで3冊紹介しておきます

科学の方法 (岩波新書 青版 313)

科学の方法 (岩波新書 青版 313)

クリティカルシンキング 不思議現象篇

クリティカルシンキング 不思議現象篇

補足:今回は、科学のようで科学で無いという概念の検討でしたので触れませんでしたが、科学について考える際には、そもそも科学は、他のものと比較してどのような特徴を有しているのかといったアプローチが必須です。そこでは、科学 対 ニセ科学の図式のみならず、科学 対 科学ならざるもの(非・科学)という図式が設定されます。このように、科学的方法をも俯瞰して検討するアプローチとして、クリティカル・シンキング(批判的思考)があります。上の本は、クリティカル・シンキングを学ぶ際の最良のテキストです

疑似科学と科学の哲学

疑似科学と科学の哲学