ニセ科学と疑似科学のあいだ

タイトルは、きくちさんの本のもじりね。

私が考えるに、きくちさんの用法での「ニセ科学」と「疑似科学」の違いは、対象とする命題群の構造「のみ」によって分けられる「ものではない」。それはその命題群の「配置」――「埋込」と言っても良いだろう――によって「価値づけられる」ものだ。周辺に着目するならば、「文脈」による、と言える。

フィクションで扱われるのは「疑似科学」と呼びたい、というきくちさんの意見、
世界設定が「我々の存在している世界という意味での”現実”」と一致していないと「社会に了解されている」フィクション
という文脈の場合には、それは肯定的に捉えられる、言い換えれば物語に不可欠な設定という要素であるので、あまり価値判断を含んでいないと思われる語を選択したいと言っている訳だ。

それで。
ちょっと考えてみると、フィクションで用いられている設定であっても、それが切り抜かれて「真実であるかのごとく」伝達される可能性はある。いかにもありそうだ、と思わせるウソってあるでしょう。フィクションは、「全てがウソである」のを意味しないからね(そもそも論理的にそんなことは不可能だ)。思わず鵜呑みにして、それを周りに話してしまうのはあり得る。
その時、命題群の配置されている文脈がシフトしている訳だ。ウソが含まれている可能性があるフィクションの世界設定という文脈から、それを誤って真実だと看做した人の中での「事実の集合」という文脈へ。そして、その人を信頼する人同士での情報伝達という文脈へ。
たとえば。
ベストヒットになった傑作SFゲーム、『ウッドギアソリッド』という作品があると仮定する。超有名芸能人の甲氏はそれにのめり込み、周りの友人達にも勧める。
甲氏は昨今流行りのtwitterをやっており、フォロワー数は128000人に迫る勢いで、日本人フォロワー数TOP100に入っている。ある日、甲氏の次のようなつぶやきが、フォロワー諸氏のタイムラインに流れた。

今やってるWGSPS。これ傑作!大島カントクやっぱ天才だわ。それにしても、○○が□□で△△とか、これやるまで知らんかったなあ。。。

この、○○が□□で〜というのは、SF的設定で、現在科学的に認められてるようなものじゃないこと。世界の大島監督は、ここらへんの設定をいかにもリアルに描くのに定評がある。大島監督はもちろん、絶妙な演出でもって、これを「あり得ないけどありそう」なものとして描いた訳だ。ところが、監督の作品のファンではあるが必ずしも科学の知識が豊かではない甲氏にとってそれは、「フィクションに含まれているが現実でも成り立っている」こととして誤認されてしまった。果たして先のつぶやきの後に、それに感心したある人のtwitter画面上には、

ublftboと100+人がリツイート

の文字列が躍ったのであった、と。
この場合には、ある命題群は、「そもそもそれを創った人間は仮構の設定としていた」、「受け取った人間は真実だと取った」、という二重性を持った、つまり、多数の文脈に埋め込まれた訳だ。当たり前だけれど、「皆が同じように読む」のではないのだから。読み手は知識も作者に対する思い入れも、様々だ。こういったことは、論理的にも現実的にも充分あり得る。ゲーム脳のように、主唱者がそもそも事実だと吹聴するケースとはまた違う。

そういうのがあるので、「フィクションで描かれていればそれは”疑似科学”と言おう」と綺麗に切り分けることは出来ない。やり方として「それは作者がそもそも仮構として創り上げたものだから事実と看做すのがナンセンス」という風に言うことがあり得る。君の信じているそれはニセ科学だが、それはそもそも疑似科学として設定されたものだよ、と。もちろん、そこで一々言葉を使い分けるかは情況次第だが。

こういうのもグレーゾーン問題と呼んで良いのかは知らないが、とにかくそういうことも考えられるので、念頭に置いておくのも良いかな、と思う。

科学と神秘のあいだ(双書Zero)

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