数撃ちまくれば
○○は放射能に良い、みたいな意見。
放射能によってこんなひどい事が起こっている/起こった という意見。
動機が善意で、本当に他人のためになりたい、と思っていて、「色んな事」に関して言及している人。
必然的に、言及の範囲が大きく広がる。そうすると、数多くの主張が集まった、「主張の群」みたいなものが形成される。
言う側は簡単だったりする。たとえば、今適当にでっち上げてみる。
豆腐を焼いて食べれば身体から放射能が排出される
このように。7秒程度で思いついた。そして、機序をでっち上げる。
豆腐に含まれる蛋白質が放射能に効き、焼くことにより、にがりの成分と蛋白質が相乗効果を発揮して、より効率的に放射能を身体の外に出す事が出来る。
50秒くらいで書いた。この種の言明に色んな衣を纏わせる。自ら現地に言って調査してきただの、その筋の権威の事をよく知っているだの、何十年も前からこの問題に取り組んできただの。
それを20くらい用意すれば良い。中身について深く考えず、専門用語などに無頓着な人は、内容の尤もらしさが解らないし、また、よく考えるのは面倒臭いから、纏わされた衣の派手さによって判断する。あの人が言っているのだからそうなのだろう、と。
そうして、そのような情報が流布される。鎖のように繋がり、蜘蛛の巣のように広がって、やがてある範囲に浸透する。
デタラメを考えつくのはさほど苦労しない。それに纏わる様々な知識との整合などを無視出来るのだから。言っている当人はそれなりの努力感などを覚えているのかも知れないし、本気で「理論的」に考えているのかも知れないけれど、それは問題では無い。
そうしたデタラメの主張群が、それを主張する人の「思想」や「理論」として広まってゆく。そして、そのデタラメを見過ごせないと考える人によって、その主張の妥当さが検討され、批判される。
それらの主張は、ある理論や知識の体系に属する用語や専門概念を拝借しているから、しっかり検討するには、それらのものが関わる理論や知識体系を押さえ、整合性を見、証拠のある無しを確認する必要がある。端的に言って、非常に労力がかかる。上で、合計数分もかからずにでっち上げたデタラメを書いたけれども、そこには、「蛋白質」「放射能」「にがり」「排出」などの言葉が入っている。これらはそれぞれが、その属する知識や理論の体系の内で「位置づけられている」用語や現象。それが複雑に絡み合わされ、主張をかたちづくっている。それを解きほぐしていくのは、相当に難しい作業なのである。
つまり、デタラメを吹聴する事と、広まった説を丁寧に検討する事は、「非対称」の関係にある。デタラメを言うのは、言ったもの勝ちになる、という場合がしばしばある。なにしろ、好意的に受け取る側は、中身をろくに確認せずに、主に誰が言ったかという情報くらいで受け容れるのであるから、その広まる疾さは厄介だ。しかも、主張の数が多くなるほど、妥当さを網羅的に指摘していくのは困難となる。
デタラメを吹聴していると看做されている論者を擁護する、「全てがデタラメとは限らないのでは」という意見がしばしば見られる(何もかも信ずる、という人よりは幾分か懐疑的だ)。
それは論理的にはそのとおりである。徹頭徹尾、何から何までデタラメを言う、という方が難しい。外に向けて言っている事が多くなるほど、たまたま妥当な話になっていたり、ごくシンプルで基礎的な部分については合っている、という事もあるだろう。
しかし、そういうものを全て拾い上げて検討する、というのは非効率であり、非現実的でもある。2時間くらいかけて数十個思いついた事でも書けば、それはその人の主張として広まる。しばしば、「ものを解っている」と自覚する者は、非常に難しい問題を解く「答え」を沢山知っている(と思い込んでいる)のである。
が、検討する方は、それより遥かに大きいコストがかかる。慎重を期せば期すほど、知に誠実であろうとするほど、長い時間と多くの専門知識を割いて検討しなければならない。
そうであるから、何か興味深い主張群を持っている論者については、その核となるような主張を拾い出して検討して、それがあまりにも荒唐無稽なのであれば、「この人の言う事は取り合うべきでは無い」という風に判断しておく、というのは合理的な行動と言える。
先にも書いた通り、いくつかデタラメな話をしているからと言って、その人の主張全部がおかしい、とは評価出来ない。論理的にも実際的にもそうだろう。だから、「その人が言っているのは全部嘘だ」などとは言えない。慎重を考えれば、「その人が言っている中心的な部分は、既存の知識に照らせば相当なデタラメであるし、指摘された際の態度もなっていないから、敢えて(好意的に寄った)注目するべきでは無い」とするのが適当だろう。
今、「態度」と書いたが、いかに専門的な知識に長けていようが、高い認識力を持っていようが、人間は誤り得る。だから、一つでも誤ったらその人の言う事ことごとくを信用しない、というのもまた極端な見方だと言える。であるから、基本的な知識や認識力の水準を測りつつ、誤った際のリカバリの仕方などの「態度」がどうであるか、という所に注目するのが重要だろう。誤りを指摘されたのに全く無視したり、開き直ったり、逆に憤って罵倒したり、などというのは話にならない。
また極端な例を出す。
こんな事を主張している人がいれば、何をバカな、となるでしょう? わざわざそんな人が言う事を一つ一つ検討してあげる必要はどこにも無い。もしかしたら、今検討されている説というのは、それが関わる専門の知識に照らせば、自分が思っている程度に「有りそう」なのでは無く、むしろニャントロ星人の話を持ち出す方に近いのかも知れない。