ある種の合理的な思考、と「常識」

豚の生食などもってのほかだと学ばなかったのか。それは「常識」では無かったのか。

先日の牛レバ刺し禁止の流れで、「豚レバ刺しは禁止されていない」から、とそれは食べられる(あるいは、食べたい、食べている)と言っている発言を見ての、主に批判的な文脈で目にする意見です。

ある物を食べるとか、食べてはならないとか、それらの学習のされ方というのは、色々な条件、たとえばその人の世代とか*1、地方の食習慣とか、そういう事が絡んでいるのだと思います。それ自体の議論も結構難しい話でしょう。

で、それはそれとして、たとえ「豚を生で食べるなどあり得ない*2」という事を強く教わってきたとしても、「豚を生で食べる」のを受け容れる場合もあると思います。たとえば、

  • 豚の飼育条件が(安全に食べられる事が出来るようなものに)変わった。
  • 豚肉(や内蔵)を生で食べられるような技術が開発された。

このような条件を付加する事によって、「だから豚肉を生で安全に食する事が出来るのだ」というような認知を形成する、というのが考えられる。そしてそれは、それなりに合理的な推論と認識であると言えるでしょう。

以前は常識とされていたものが、いつの間にか――科学や技術の発展によって――覆っていた、というのはある事でしょう? 昔は食べられなかったけれど今は安全に食べられる、という物もあるでしょう?

であるのに、豚肉を生で食べるのはとんでもない事だというのは「常識」ではないか、今までそれを学ぶ機会が無かったのか、とあまり前面に出して批判するのは果たして適切なのでしょうか。それより、その「常識」というのはどのように形成され、どこまで一般的であるのか、とか、「常識」とされているはずなのにそれに反する事をしてしまう認知のメカニズムはどのようなものなのか、などを考察していく方が重要なのではないでしょうか。

「そんなの常識だろう?」という言い方は、相手を常識を弁えない無知なる者と看做す含意がある訳ですね。当然、そのように批判されれば反発もするし腹も立つでしょう。

私は、ではその常識とは一体どこまで一般的であるのか、あるいは一般的であるべきなのか、という事等をまず丁寧に考えておくべきだと思います。

「常識」の使い所は難しいのです。私など、「豚肉を生で食べるなどあり得ないが、鶏が生で“食べられる”事など“常識”だ」と思っていたのですから。更に、牛“や豚”のレバーが安全に食べられる「という常識」があるとも思っていました*3。人間の認知などそういうものです。好き勝手に情報を付加して合理化する。だから人の認知や行動を変えさせたり、「解ってもらう」のは難しい。

たとえば、今後、レバ刺しが放射線照射等の技術開発によって安全に供される時代が来て、それが広く世間に認められたとしましょう(そしてそれは、反科学的あるいは非現実的な設定では無いでしょう)。その時には、「肝臓を生で食うなどもってのほか」という、以前の「常識」が覆り、「肝臓を生で食べられるという“常識”」が形成される、という事になりはしないでしょうか。

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ちょっと付け加え。

私も日常会話で、「それ常識だよ。」みたいな事をやっぱり言います。で、言った後で、「別にそんなにポピュラーな知識でも無いかも」と思い直したりします。話している相手に直接、「いや、それ別に常識とは言えないでしょ。」って言われた事もあります。受けた教育、得た知識、というものには結構なバラツキがあるものです。食習慣とそれにまつわる知識もそうでしょう。

*1:その人が教育を受ける時期の色々な知識に依存する

*2:あってはならない、という意味。この用法に馴染み無い人もいるので一応。

*3:何故なら、テレビ等で、それらが「普通に」食べられるものとして紹介されていたから