実証科学における「証明」

実証科学の議論において証明という言葉を使う時には注意をしなければならない、というのは私がしばしば書く事ですが、サミール・オカーシャの科学哲学の本に、この点に関する明瞭な記述がありますので、引用しましょう(強調は引用者による)。

 帰納法は科学において中心的な役割を担っているが、われわれのことば遣いのせいで、この事実がなかば覆い隠されてしまうこともある。たとえば、新聞を読んでいて、遺伝子組み換えトウモロコシが人間にとって安全であることの「実験的証明」を科学者が見つけたという記事に出会ったとしよう。この記事が意味しているのは、科学者が問題のトウモロコシを多数の人間に試験的に摂取させたところ、害を被った者はいなかったということである。しかし厳密にいえば、たとえばピュタゴラスの定理が数学者によって証明されるのと同じ意味で、トウモロコシの安全性が「証明」されたわけではない。「遺伝子組み換えトウモロコシは、被験者の誰にも害を及ぼさなかった」から「遺伝子組み換えトウモロコシは万人に無害である」を導く推論は帰納的であり、演繹的ではないからだ。新聞記事は、正しくはこうあるべきだった――「遺伝子組み換えトウモロコシが人間にとって安全であることの申し分ない《証拠》を科学者は見つけた」。「証明」ということばは、厳密には、演繹的推論についてだけ用いるべきだろう。ことばの厳密な意味で、科学の仮説がデータによって真であると証明されることは、たとえあるとしても、ごく稀でしかない。
サミール・オカーシャ『科学哲学』P25・26

オカーシャの言うように、経験に照らして理論なり仮説なりの正しさを検討しようという分野では、厳密な意味で、つまり全てにおいてどうだ、という意味で証明された、と主張する事は一般に出来ません。通常そのような理論や仮説というのものの射程は、時間的にも空間的にもとても広い範囲であり、その全てを検討する事は不可能だからです。時には対象が無限である場合もあり、有限な存在たる我々人間には、悉くを確かめるという事は出来ません。
こう改めて言うと、そんな事当然ではないか、と思われるかも知れませんが、意外に、議論においてこの辺りの所に了解が取られていない場合があるように見受けられます。きちんと意識して、押さえておくに越した事は無いでしょう。
もちろんこれは、今のような文脈の議論において証明という言葉を用いてはならないという主張ではありません。色々の事情を理解しておけば、今使っている証明という語は、数学的な意味での厳密な証明とは異なっているという事を踏まえつつ話を進められるからです。ただ、そういう事情を知っている人ばかりでは無いので、敢えて区別して用いる、というのも一つの方法であるのではないでしょうか(私自身は区別しています)。
重要なのは、引用文中で強調を施した、申し分ない《証拠》という部分です。
経験的に確認していく科学においては、数学的な意味で証明は出来ない、充分な証拠が積み上げられた事によって理論や仮説が確認された、としか言えない、という事です。そこを踏まえてこそ、では、科学における証拠とは一体どういうものか。何がどのくらいあれば申し分ないと言えるのか。と議論が進みます。ある意味で、そこがスタート地点であると言えるのです。
ちなみに、今回ご紹介したオカーシャの本は、科学哲学の色々のトピックについて要領良く、簡潔明瞭にまとめられていて、科学哲学の議論に入門するにとても良い本であると思います。科学哲学の議論に不案内な方には、一読を勧めます。

科学哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

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