抽象的な理論の理解度合いを確かめるために実現象を用いる事のむつかしさ

ある都市では人口の60%は男性,男性の40%,女性の35%は喫煙者である.この都市のホテルのロビーで椅子に座ってタバコを喫っている人の後ろ姿が見える.この人が男性である可能性はどれくらいか.

この問題は、下記の本、P53から引用したものです。

解答は、24%(男性の喫煙者の割合)を38%(喫煙者の割合)で割って、63%です。数学における条件付き確率の問題として、それで正解としていますし、正解です。

でも、これって変ですよね。だって、後ろ姿が見えると言っているんです。我々が性別を推測するといった場合、性別の特徴を思い浮かべ、それがどのくらいありそうか、と考えていく訳です。この問題だと、姿を見たとの前提があるのだから、髪型や服装、体型など外見から、推論時点においてこの性別の人はだいたいこういう特徴を持っているであろう、と考えて、そこから性別を当てようとする。日常的な推論過程の条件として、タバコを吸っている割合だけから当たりをつけるはずが無いでしょう。であるのに、性別でタバコを吸っている割合なる条件のみから性別を当てさせようとする。要するに、数学的の理論の仕組みを理解させるべく日常現象を手がかりにさせようとしているのに、却ってそれが、非現実さを思わせるような内容になっているのです。更に言えば、都市における割合を提示しておいて、ホテルのロビーでのシチュエーションを出して答えさせようとしています。ホテルに宿泊する客に絞ったら割合が違ってくるのでは、という層別の直感が働く人ならば、単純に割り算して良いものだろうか、と考えるでしょう。

こういうのは結構あります。たとえば、打率なる、打数における安打数の割合を、安打を打つ確率として確率問題を解かせたりするのがそうですね。打率というのは、特定の競技において特別に定義された指標の1つであって、それは、ベルヌーイ試行における成功確率などでは全くありません。先の問題と同じく、

抽象化された理論の理解を助けるべく実現象を引き合いに出しているのに、その実現象の具体的構造が理解を妨げる

のです。

これは、その例を知らない人より知っている人のほうが邪魔をするかも知れません。知っている人は、思考によってその現象を明確に浮かべて具体的な構造を描き出せるのに対し、知らない人は、そういう具体的な所は解らないから、無視して形式的な計算に移るだろうからです。だとしたら、いったい具体的の現象を引き合いに出して練習問題なりを出題するのにどういう意味があるのだろう、と思うのです。

そういえば、前にも同じような話を書きました。コイン投げですね。よく、成功確率0.5のベルヌーイ試行の問題で出されるコイン投げですが、実際のコイン投げの成功(と失敗)の確率が0.5になる訳がありません。そもそも不均一の物体なのですし。そういう事をするなら、

具体的現象を引き合いに出すが、これはあくまで理解の手助けをさせるものであって、適度に理想化や抽象化を施せ

というのを、ちゃんと前もって教え込み、出題時に工夫する必要があるでしょう。コイン投げで言えば、表と裏で彫刻が違うし内部も均一では無いだろうが、ひとまずはこれを完全に均一で、投げかたなどの影響を無視し、成功(失敗)の確率は0.5であるものとする、と明示すべきです*1。物理の問題で、簡単な力学の問題を、人間が荷物を持って運ぶなどの現象を使って出題している場合がありますが、それなども一緒です。賢い人は、複雑な現象を複雑のまま、頭の中に詳細に描き出そうとするものです。また、実際の科学や工学の話としては、現象の複雑さを考慮して(無視せずに)仕組みを解明するという問題を解いていく事が待っている訳です。そういう実際の複雑さを無視して、理想化や仮想化をおこなって問題を解く事が当たり前かのように振る舞うのが良い教科書であるとは、私には思えません。

最初に引用した問題。慣れていれば、2かける2のタイルとその面積を描き出せば簡単に解るし*2、また出題者もそういう想像力の発揮を期待しているものでしょう。ある種の超越的視点。しかるにそれは、慣れたから解る事です。慣らせるにはどうすれば良いか、はあまり考えられていません。

*1:大村平さんの本は、コインやサイコロの話でそういう事を書いています

*2:こういうの⇒検査性能シミュレーター