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私は勉強が好きです

私たちは勉強がキライです - Togetter
「勉強」という語をどういう意味で取るか、という話もありますが、この文脈だと、学校で学ぶような内容で、その中でも自然科学分野を習得しようとする事を指している、と考えて良いと思いますので、ここでは基本的にその意味で用います。
まず、本質的に、勉強するってキツイ事だと思う訳です。様々な用語や規則を憶えて、それぞれの関係や全体的な構造を把握するのですから、一筋縄ではいかない。WEBの発展等で、一昔前よりも効率的に出来るようになったとはいえ、時間も金も要ります。報酬が貰えでもしない限り、積極的に勉強するのを志向する事は、なかなか無いでしょう。
で、私自身は、勉強が好きです。どうしてかと言うと、キツさを補ってあまりある面白さに気付いたから。
科学というのは、世界を知るための方法の群と、それによって知る事が出来た知識の集まり、というようなものですから、それを学んで、世界の仕組みの一端を解る事が出来る訳です。それで私は、ものの仕組みを知る事で喜びを得る人間なので、とても面白いのです。たとえて言えば、世界という機械の構造を知る営み、とでもなりましょうか*1。そういう意味で、私にとって「勉強」とは、外発的な、つまり外から報酬を貰ってやるようなものでは基本的には無く*2、それ自体が楽しいからやる、というものです。ただしキツイ。でも、キツイけど面白いからやる、というのは、スポーツや武術でも、他の趣味でもあるでしょう。上達する事が動機づけになる訳です。
学生の頃、私は勉強が嫌いでした。あるいは、科学が嫌いだった、と言っていいのかも知れません。それは、科学が極めて限定的で、大した事が出来ない、と思い込んでいたからです。それから、「勉強なんて出来なくても良い、という教育を受けた」のもあるのでしょう。確かに、教科書などを見ても、知識が整然と並べられていて(教科書としてそれは望ましい性質の事もある、と気付くのはずっと後です)、いかにも面白みが無い、それを知って何の役に立つのか解らない、という実感がありました。端的に言って、知識と身近の現象との繋がりが解らない、と。
勉強に興味を持ったのは、高校を卒業してずっと経ってからです。きっかけは、「どうしても仕組みを知りたい事が出来た」から。そして、それを解るには、どうやら科学を知る必要があるらしい。それで、科学の色々な分野に興味が出てきた。
それと同時では無いのですが、ある時期にふと、「身のまわりの様々なものの仕組みを自分はどのくらい知っているのか」と考えるようになりました。すると、自分が驚くほど何も知らない事を痛感する。基本的に、ものを知らない自分というのが嫌な人格なので、こりゃいかん、と思った訳です。そうして、身近の色々な機械や道具の仕組みに興味を持つようになった。これは私に限らず、図解で分かる、的な本のシリーズが一杯出版されている事からも、その辺に関心を持つ人はそれなりにいるだろうと推察出来ます。
ともかく、そうして、より広い対象の仕組みに関心を持ってみると、今度はまた、科学一般に興味が出てくる。それまではどちらかと言うと、科学を勉強したけれど、色々単純化しているような所に対してもやもやした感じもあったりしましたし、自然科学以外に興味が偏っていたのですが、「身近のものを知りたい」と考えると、より実証的な方向とか、自然科学的な分野に関心を持つようになってきた訳です。と言うのも、身近の道具や機械というのは、工学や技術の成果で、それには専ら自然科学の知識が関わっているから、だったのですね。
そういう流れで、科学の知識というのが、自分が思っていたよりも遥かに、身近のものと関わっているし、土台のしっかりした、膨大な体系である、というのに気付き出したのです。それで、勉強を、より積極的に行うようになってきました。
でもこれだけではまだ、科学のとても重要な部分である制度の話とか、科学の方法の根本に関わる確率・統計の知識への関心は持っていません。ここに興味を持ったのは、ゲーム脳(もっと一般的にはゲーム悪影響論)について考えていたのがきっかけです。ゲーム脳説が批判されるのは、それが原理的にあり得ないから、では無く、「実証的な証拠が無い」からですが、それは、科学の制度に関わる問題です。つまり、実証的なデータを、学術論文のかたちで提出し、他の専門家の検討を受ける、というプロセスの問題。そういうのは、世界の構造や機構の知識を確立するために設けられている制度ですから、本などによって、「成果としての知識(狭義に科学と呼ばれる事がある)」を得るというだけでは重要さに気付きにくいのですね。
また、ゲームの悪影響論というのは、ある文化が人間一般にどのような影響を与え得るのか、という問題ですから、集団を調べて因果関係を検討する、という方法が重要です。という事で、社会心理学や疫学といった方法が大事というのに気付いて、その流れで、統計的な分野の勉強の必要――実は科学のあらゆる分野で重要――にも気付いたのです。
と、これは、私が科学に興味を持ち、勉強が好きと言えるまでに至った経緯ですが、私だけでも、こういう流れがあって、ものすごく時間がかかっています。1・2年でどうなった、というものではありません。しかも、偶然的な要因もあるでしょうし、それが無くては、未だに科学に対して誤解を持ったまま、だったかも知れないのですね。勉強を好きになる、あるいは、勉強を嫌いにならなくなる、勉強する事に価値を見出す、という事にも、複雑なプロセスが関わっているものと思います。
ところで、放射線云々の議論では、定量的な「リスク」の評価という事が絡んでくると思われますが、そのリスクという概念には、確率・統計的な考え方が関わってきます。これは、現象を確率論的に捉えるという事と、統計学的な理論によってデータを解析・解釈していく、という事を理解する必要がある訳で、それは人によってはほとんど、それまでに築いてきた世界観の崩壊や変革を伴うものです。「世界の在り方」についての確信を解体するくらいの事です。これは難しいです。
また、科学というのは、現象を数量的に捉えるという部分があって、それには当然、数学の理解が必要となります。関数を当てはめて現象を予測したり、ある種の数学的なモデルによって現象の構造を把握する、といった事ですから、まさしく、「学校でやるような勉強」自体が必要である訳です。
それを踏まえて、今の文脈でたとえば、一次関数あたりから改めて教えるのが重要だ、といったような事を考えている人は、どのくらいいるでしょうか。指数・対数の考え方から学習させよう、と臨んでいる人がどのくらいいるでしょう。勉強というのは、何だかんだで地道な作業ですから、そういった土台のもの、基本の所からやっていこうというアプローチも重要でしょうね。私などは、時には小学生向けのテキストから勉強し直すのが重要、と思っているのです。と言うか、自分自身が、小5くらいの算数の本からやり直したのです。率とか割合とかの話では、中2くらいの数学をやり直す事が大切です。改めて、理科の濃度の概念をどうして習ったのか、等に思い至ったりします。
そういうような事を考えても、勉強する、ある程度の事が解るようになる、と言っても、軽く数年は要するだろうと思います。気の長い話ですし、ちょっとした動機づけでは持ちません。難しいですね。元々持っている知識の多寡にもよるし、世の中には、「文字が沢山ある本」そのものが嫌いな人もいます。どのような人にどのようなアプローチをするか、考えるべき事は山ほどあります。

科学の方法 (岩波新書 青版 313)

科学の方法 (岩波新書 青版 313)

*1:哲学的な世界観、自然観の話はしません

*2:金をやるからこの分野を勉強せよ、と言われれば、恐らくモチベーションが変化するでしょう