科学とは何か――森博嗣の見方 (はてなダイアリー版)

特に深い意味は全くなく、なんとなくこっちにも載せてみることにした。
はてなダイアリー版と書いているけれど、内容は全く同じ。ココログアフィリエイトの部分をはてなのasin記法に変更したのみ。
元エントリー⇒http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-43d5.html

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 まず、科学というのは「方法」である。そして、その方法とは、「他者によって再現できる」ことを条件として、組み上げていくシステムのことだ。他者に再現してもらうためには、数を用いた精確なコミュニケーションが重要となる。また、再現の一つの方法として実験がある。ただ、数や実験があるから科学というわけではない。 個人ではなく、みんなで築きあげていく、その方法こそが科学そのものといって良い。
森博嗣 『科学的とはどういう意味か』 P107

森博嗣による、「科学とは」「科学的とは」どういったものか、に関して自らの経験に基づいて書かれたエッセイ。言わずと知れた「理系作家」の書いたものであり、個人的にも一番好きな作家であるので、刊行前から注目していた。

本書では、エンジニアとしての森(彼は自身を「科学者」とは言わない)の、大学教員としての生活――教育や研究の経験――などが踏まえられ、「科学」とはどういったものであるか、というテーマが考察されている。あくまでも工学系技術者としての見方が開陳されている内容であり、たとえば科学哲学のように、本格的に科学の概念を精密に論理的に分析する類の書では無い。その意味では、タイトルを見て構えていた人は、本文を読んでみて、肩透かしを食らうかも知れない。

森は、科学的なものの見方を欠いていては「損をする」のではないかと危惧し、色々の例を挙げてその理由を説明する。科学的な考えとはどんなものか、その認識を持たない場合にはどうなるのか、と。それは、現象を捉える際の考察の仕方の違い、つまり現象を客観的に(主観を過度に一般化しない)見たり数量的に分析したり、という事であったり、そもそも科学を基盤として成立している現代社会においてその基盤となる科学に関する知識を備えていないのでは様々な不利益を被るであろう、という見方である。これは本書に通底するテーマと言えるだろう。

さすがに人気の小説家だけあって、実に読ませる文である。いわゆる読み物としてもとても面白い。切れ味鋭い洗練された筆致で、時に挑戦的だ。また、経験談も興味深いし、時折挿まれる工学的・力学的 な説明は、明快で唸らされる。とりわけ、ジャイロモノレール研究のエピソードは、読んでいて軽く震えを覚えた部分であった。森の日記にて製作過程を見、動画を観た事があったが、そこにそんなにも興味深いエピソードが含まれていたとは、不覚にも押さえていなかったのであった。

第2章 「科学的とはどういう方法か」では、いわゆる「非科学」的なトピックについて考察されている。科学とはどういった営みであるか、非科学的なものとはどんな事か。科学がどういう方法を用いて何を見出していくのか、どのような限界があるか。それが丁寧に説明される。とりわけ、「ある技術者の返答」は興味深い。

ここで一つ2章から引用する。

 しかし、科学を目の敵のように言う人もいる。「科学ですべてが説明できるのか?そんなふうに思っているのは科学者の傲りだ」と。それは違う。科学者は、すべてが説明できることを願っているけれど、すべてがまだ説明できていないことを誰よりも知っている。どの範囲までがまあまあの精度で予測できるのかを知っているだけだ。しかし、科学で予測できないことが、ほかのもので予測できるわけではない。(P85)

この章の前半部分を初めとして、菊池誠 『科学と神秘のあいだ』に共通する問題意識が感じられる。といっても、「書き方が似ている」という印象がある訳では無い。菊池が、丁寧に親しみやすい言葉で考察を重ねるのに対し、森は、先にも書いたように、剃刀のごとき切れ味の文章で鋭く抉る。時に挑戦的な物言いを発し、読者に突きつけてくる。同じく非科学的(ここでは敢えてこの表現を使う)なものの広まりを危惧する論者のこの対比は面白かった。

本書は、ニセ科学に関する議論や科学哲学、クリティカル・シンキングなどに興味を持っている人、あるいは、森の著作やWEB日記を好んで読んできた人にとっては、「なるほどそうだったのか」となるよりも、「そうなんだよな」と思わされるのではないかと思う。その意味で、この種の議論に精通する人からすれば、目新しい、新奇の視点が提供される、という物では無いかも知れない。しかし、科学や技術・工学のプロフェッショナルとしての森の、「科学」という営みに関しての、ある意味集大成と言えるまとめであるので、一読の価値はあるものと思う。学術的に洗練されている訳でも、精密・厳密な議論がされているものでも無いが、そこはエッセイとしての体裁という文脈を押さえつつ読めば良いだろう(これは、「大目に見て批判的に捉えるべきでは無い」という主張では無いので。念のため)。位置づけとしては、ファインマンやセーガンなどのエッセイのようなもの、とでも言えるであろうか。
ニセ科学論を追っている人は、「似非科学」「マイナスイオン」といった文字列を目にして、ほう、と思ったりニヤリとするだろう。また、この部分はあの議論に繋がっているのだろうな、とか、あの論者の本などを参照しているかも知れない、といったようにも読めて楽しめると思う。

もちろん、森の見方を全面的に受け容れる必要は無い。科学的な思考の備えや知識・情報の取得の仕方、捉え方、処理の仕方、といった一般的な部分はともかく、森の観察から導かれた社会的な部分に関する分析には、自分が知っている分野については、果たしてそうかな、と思わされる所もあり、用語の使い方で気になった部分もある。また、ほとんど知識の無い分野の事は(私の例で具体的に言えば、政治・経済・法 といった社会科学諸分野)、そもそも検討が出来ない。
少々こじつけのような言い方だが、そういった森の見解自体を細かく批判的に捉え、それは妥当なのか、と懐疑的に検討するのも、一つ「科学的」なものの見方、あるいは「構え」と言えるであろうし、森もそう読まれるのを望んでいるだろう。

ここで、私自身が批判的な事も書いておこう。
それは、森による、「理系/文系」の語の用い方に関してである。
最初の方で、それらの語の大まかな意味合いが示され、概ねそれに従って(そして意味がブレつつ)用いられていく訳だが、本書が、現象を客観的に捉え数量的なものの見方をする肝腎さを説く事がメインになっているが故に、どうしても、対照とされる「文系(として想起される代表的な学問分野とそれに取り組む人、とでも言っておこう)」にはネガティブに映る。もちろん森は、単純にそういう分類が出来る、あるいは分類の必要があるとは言っていないし、文系(と森がカテゴライズしている集合)を非難したいのでは無い、としばしば語っている。しかし、語ってはいるものの、やはりネガティブな文脈でその語が連発されれば、文科系学問に親しむ者としては、あまり面白く無いであろう。森の意図を正確に把握していてもそうであろうから、彼の著作に親しんでいない人からは、尚の事 反発を呼ぶやも知れない(あるいは、浅い読みしか出来ない人は、文系に対する揶揄的印象を、森への賛意と共に強化するかも知れない)。
森は、人文・社会科学においても定量的・数学的 方法を駆使する分野がある事を当然押さえており、それら学問の意義を把握しており、その上で語を使っているのであるが、それでも、ああいった「文系/理系」の用い方は行わなくても良かった、否、出来れば避けてもらいたかった、と思う。いかにも勿体無い、あるいは「隙を作ってしまっている」というのが私個人としての率直な感想である(もちろん、「”文系を自覚”する者」の思考の形態としてそういうものはあり得るのだろう、という意味で理解出来る部分はある)。

本書の注目すべき特徴は、森が東日本大震災に関する記述に ある程度の分量を割いている事であろう。森の読者ならば、WEB日記など以外では、あまり時事的な事柄については書かないという印象を持っていると思う。その森が、今回の震災には多く言及している。森にとっても、あの震災が、様々な意味で――特に「科学」にまつわる事に関連して――ターニングポイントであったと看做すべき出来事であった、という事なのだろうか。そこでは、マスメディアの報道の仕方や専門家の発言の考察、定量的な物の見方、リスクの丁寧な評価の重要さなどが説かれる。放射線関連の単位や用語(ベクレルシーベルトやグレイの物理的単位、ミリやマイクロの接頭語、など)にも言及している。そういう、現在進行形の社会的な現象を森が積極的に扱っている事を新鮮に感じた。

ちなみに、本書は売れているようである。Amazonで見ると、現時点で

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※エントリー執筆時にAmazonのページよりコピーした

この売れ行きのようだ。これにはやはり、作家としての知名度も強く関連しているのだろう。なにしろ「科学」とは、という実にマイナー(とも言えない?)な話題を取り扱っているのである。もちろん、新書である事、震災に関する事柄が書かれている事、もあるだろうが、放射線原発の語がタイトルに含まれている訳では無い(帯の文句は、眼を引くためか、少々品が無いが)。著者の人気という所(格好をつければ、因子あるいは変数)は大きく関わっているのだと推察する(こういう「売り上げ」の面から言及をしたのには、実は理由がある)。

ここまで、大まかな内容を紹介してきたが、一言で言って、「面白い」本である。そして、ありがちな感想として、「考えさせられる」ものであるとも言える。それまで「科学」にあまり関心を持ってこなかった人は、著者の考えに時に賛同し、時に反発しつつ、科学という営みを意識しながらどんどん読み進めていけるだろうし、元々関心を持ってきた人にとっても、科学的な方法が要領よくまとめられていて平易に解説されている良書と感ずるだろう。

最後に、本書(P112)から再び引用しよう。

「科学者とは、科学でなんでも解決できると傲っている」と言う人がいるけれど、それは、その人が勝手に思い込んでいる印象である。むしろ、科学ほど「謙虚」なものはない。ものごとを少しずつ確かめながら進んでいる科学の基本姿勢は、傍目には、楽観ではなく悲観である。そこまで慎重になる必要があるのか、と思えるほどだ。 ちょっとした質問に対しても、「まあ、だいたいそうですね」と割り切って答えることができないのが、科学者である。それは、少しでも例外が認められるなら、僅かでも違う可能性が考えられるならば、肯定することはできないという姿勢であり、なによりも謙虚さの表れといっても良い。

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)