「理論」と裏付け
安冨先生一日にして癌発症メカニズムの新理論を打ち立てる - Togetter
「理論」というものを単に、ある現象の構造を整合的に記述したパッケージのような概念、とでも捉えるならば、安冨氏の「理論を考えるときに、データなんか不必要」との主張は、まあその通りである、と言えるだろう。理論概念を、より広い意味合いで考えるのなら。
しかるに、もし実際の現象のメカニズムを説明したい、あるいは実際の世界に関わる新奇の説を主張したい、というのであれば、いかに目新しい「理論」を着想出来たとしても、それだけでは「相手にされない」。その説が突飛であるほど、専門的な人々からは見向きもされない。何故なら、その新奇の主張を裏付けるだけの「証拠」が無いから。
つまり、「理論」は確かに、現実を観察・観測して得たデータが無くとも「考える事は出来る」けれども、それが尤もらしい主張と認められるかは別である、という話。
「理論」に含ませる意味合いを狭める事も出来る。最初に設定した「ある現象の構造を整合的に記述したパッケージ」というものの内、「実際の現象を上手く説明出来、今得られた証拠によって支持される、あるいは支持出来るように見える」もの、とでもなるだろうか。別の言い方をすれば「定説」などとも表現出来る。そのような用法であれば、今コンセンサスを得られたものから大きく外れた突飛な考えは、「理論などでは無い」と看做されるだろう。「思いつき」に過ぎない、という訳だ。
この理論概念を踏まえると、「定説」になる前の、まだ証拠は足りないが、これまでの知見から妥当な可能性はある、という風に看做される説などは、「理論(定説)以前」という意味合いを込めて「仮説」と呼ばれる場合もあるだろう。ある説に対して、「理論的にはあり得るかも」といった評価がなされる事があるが、その「理論」は、現在の定説を適用すれば非現実的とは言えない、というような意味合いと取れるだろうか。
主張が「仮説」と比較的好意的に評価されるか、それとも「空想」「妄想」と揶揄混じりに言われるかは、その主張のかけ離れ方、突飛さの度合い、と関連するのだろう。
初めに設定したように、「理論」をより広く捉えるなら、確かにいくらでも、「データ無し」に「理論」は着想出来る。たとえばフィクションの世界設定(の内、その世界の現象を支配する原理原則や法則)などは、我々が住む世界とかけ離れた想像上の世界の「理論」をいかにエレガントに描き出すか、というのが一つの評価の観点ともなる。あるいは、子供が思いつくような物語世界も、見方によっては「理論」と呼ぶ事が出来るのかも知れない。
けれども、実際に我々が直面する現象について、単に想像を逞しくして、その時の専門家のコンセンサスが得られたものや、集積されたデータからかけ離れた「理論」を着想し、アピールしたとしても、門前払いを食らうだけだろう。時にそれは、行き過ぎた想像、即ち空想や妄想として一笑に付されるだろう(そして、理論をより狭い意味で使う人からは、そんなものは理論では無い、と一蹴される訳だ)。
中には、そのようにして門前払いを食らった人や主張が、「不当にも排斥されたもの」として評価され、賛同されたり心酔されたりする事もある。そうして集まった人々が、大きな会派を作り、スタンダードな組織の硬直性や排他性を主張し、あるいは陰謀論めいた持論(これも一つの「理論」だ)でもって、自らが排斥されたのは有能な自分を認めない勢力が動いたからだ、と嘯く(自分の能力が足りなかった、とは認めない)。そうなってしまうと厄介である。