罷り通る

部活動における体罰について、私が実際に聞いた事のある話。

  • ある程度は体罰もあって良い。
  • きちんと考えられた結果の行為なら致し方無い部分がある。
  • 理不尽な暴力が行われている事も確かにある。
  • 上のようなものについて、糾弾した方がいいとは思うが、なかなか簡単にはいかない。その理由として、
  • 抗議等をした場合、その人や関係者が何らかの被害を被るのではないか。
  • 体罰が行われている所が名門校等であった場合、そこに憧れている後進の未来や機会を奪ってしまう事になるのではないか。
  • 卒業や引退直前なので、トラブルになった時のリスクが大きい。
  • 別の体罰を行う教師と比較して、相対的な評価を行う(あの先生の体罰は構わなかったが他の先生のは理不尽だ、等)。

こういう話は、色々な時に、色々な人から聞きました。ここを見ている中でも、同じような事を見聞きしたり思ったりした方もあるかも知れません。ここには、切り分け、我慢、葛藤、打算、割り切り、等々の、様々な感情や評価が渦巻いています。このような構造が、実際にある暴力行為を放っておき、のさばらせる。そして時には肯定的に評価される事もあるのでしょう。その結果、指導の名の下に攻撃が行われる事が定着する。
他の集団からは異常な暴力行為以外のなにものでも無い事が、当事者もしくは近しい所にいる人にとっては、教育目的の仕方の無い行為、実力を向上させるための必須の行為と評価・価値付けされる。その集団内においては正当の事として価値付けられているから、外部からの批判を受け付けなくなる。
ただ、そのような集団も、色々な結び付き方があるように思います。おかしいな、と思いつつも仕方が無い、と考えている者、指導者のやり方が適切であるという確信を懐く者、反感を覚えて離れつつある者、理不尽でしか無い暴力の原因を自らに帰属させ、自分を責め、心身共に破壊される者。そういった人達が繋がり、層をなしていく。
そういった過程によって、有形的な暴力が教育(懲罰含む)目的に行われる集団の存在が見逃され、時には称賛されもする。何年も何十年もかけて、社会にこびりつくように定着してくる。
私が直接見た範囲でも体罰はありました。部活では無く授業の中でも。拳で顔面を殴る教師、生徒の脚を蹴る教師、算数や数学で使う大きな定規で小突く教師、太いゴムで手脚を弾く教師……色々いました。今考えると滅茶苦茶な話です。いや、当時としてもそう思っていたのだけれど、どこかで、「そんなものだ」と考えていたのかも知れません。そして、「関わりあいたく無いな」と思っていた。あんな行為に教育的な合目的効果などあると認識した事はありません。ただただ面倒臭かったし、あんな事されるのは嫌だと思ったから、そうされないよう行動するようになった。そこにあるのは打算であり、姑息の行動コントロールでしょう。だって、殴られるのなんて勘弁、という感じでしたもの。
そうやって、結果的に表面的な行動が「外れない」事をもって「教育がなされた」と評価するのならば、ある意味それは、体罰が教育に役立った、と言えるのかも知れませんが、私はそのような解釈はしたくありません。道を外したら電流を流して軌道を修正させるようなものを教育とは呼びたく無いではありませんか。学習とは呼べるかも知れませんけれどね。
ともかく、今考えて異様な空間が罷り通っていたし、今も少なからずあるのかも知れません。
ところで、桜宮中の件を知って、「あのような事はどこでも(多く、という意)起こっているのではないか」と言い、そこから、ああいうケースを糾弾したら、ものすごく沢山の数の学校での行為が問題とされてしまうではないか、みたいに主張する意見もあるかも知れません。けれどそれは変な話で、本当は、「異様な空間がそこかしこにあるかも知れない」と危惧するべきだと思うのです。最初に書いた、体罰への考えの意見の紹介で、体罰を糾弾したら、結果的に(部活動停止等によって)後進の色々なものを奪ってしまいかねない、というものは、たとえば進路希望者の目標等を壊してしまう可能性を考えると頷ける部分は無いではありませんが、「現にある暴力構造を維持する」という危険もあると考えています。とても難しい問題なのでしょう。