がん検診に害は無いのか
はじめに
国立遺伝学研究所の川上浩一教授が、内科医のNATROM氏とのやり取りにおいて、次のように発言なさっていました。
@NATROM 私は「早期発見」について話しています。「早期発見」が悪いとする根拠はないでしょう。検診(集団検診)はその手段で、検診自体には害はあるはずはないです。問題にしなければならないのは、検診の結果が判明した後の判断でしょう。
— Koichi Kawakami (@koichi_kawakami) 2017年3月26日
「早期発見」が悪いとする根拠はないでしょう。検診(集団検診)はその手段で、検診自体には害はあるはずはないです。
(強調は引用者によります)川上氏によれば、検診に害はあるはずはないとの事です。
昨今、福島県における甲状腺がん検診にまつわる議論などで、いわゆる過剰診断が取りざたされる事があります。がん検診のように、実験に準ずる方法をおこないにくい分野において、その効果や害がどの程度か、という事について議論を戦わせるのは重要であると思います。しかし、検診自体には害はあるはずはないといった主張は、検診の益を主張するものの中でも相当強い部類の意見です。少し考えても、あなたは がんですやあなたは がんかも知れませんと言われた場合の心理的負担は相当なものであるという事は想像がつきます。いくら何でも、検診に害が無いというのは、見方が素朴に過ぎるのではないでしょうか。
本記事では、まず、検診において生ずると考えられる害について紹介し、次に、検診を研究・普及・推奨する組織が検診の害をどのように周知しているか、また、検診に関連する学問――疫学や公衆衛生学――の教科書でどう説明されているか、を見ていきます。
検診の害
検査による侵襲
医学的な行為によって身体に影響を及ぼす事を、侵襲と呼びます。検査によって侵襲の程度は様々です。超音波のように比較的低侵襲のものもあれば、直接身体に針を刺したりする場合もあります。また、画像診断などは、放射線に曝露(被ばく)されます。
偽陽性(誤った陽性)
検診を便宜的に、
- スクリーニング:病気が疑われる人以外の篩い落とし
- 精密検査:病気のある無しを確定させる診断
このような段階に分ける場合があります。この最初の段階のスクリーニングでは、病気が疑わしい人を拾い上げ、それ以外の人を篩い落とす検査をおこないます。この時、病気があるのに見逃されるのは非常に問題なので、病気が無いのに病気があるかもと判断されるのをある程度許容して検査がおこなわれます。この、病気があるかもと判断される事を、陽性であると言います。そして、病気が無いのに陽性になるのを、偽陽性と表現します。陽性という判断が誤っていたという事です。
偽陽性であれば、少なくともスクリーニングから、精密検査で診断が確定するまでの間は、自分が がんであるかもと考えながら過ごします。これは大きな心理的負担です。健康診断で要精密検査との結果が出て沈み込んだ、という経験を持つかたもあるでしょう。
このように、自分が病気であるかも(病気で無いかも)と判断される事による心理的な働きの事を、ラベリング効果と言います。病気であるかも、というのは好ましく無い事ですから、ネガティブなラベリング効果と表現されます。
偽陰性(誤った陰性)
陽性とは逆に、病気は無いだろうと判断される事を、陰性と言います。と言う事は、偽陰性とは誤った陰性、つまり、病気があるのに陰性にされるのを表します。いわゆる見逃しです。
偽陰性は見逃しですから、当然、病気があるのに治療がなされないのを意味します。ですから偽陽性の所で説明したように、スクリーニング(一次検診)では、見落としをしないように、ある程度偽陽性が出る事を許容します。
過剰診断(余剰の発見)、過剰治療(余計な処置)
がんと一口に言っても、それには色々な種類があります。その中で、成長が止まったり、自然に消えてしまう(自然退縮)ものや、成長が遅くなくとも罹ったのが高齢である場合などは、がんに罹っても症状が出ない、言い換えると、他の原因で死ぬ事があります。これは、その がんが、見つけなくても身体に影響しなかったのを示します。つまり、その発見は余剰であったという事です。これを、過剰診断と言います。
厄介なのは、がんは、見つけた時点では経過が精密には判らない所です。従って、より安全側で対処するために、多くは手術などがおこなわれます。そして、病気の発見が過剰診断の場合、おこなわれた処置はやる必要の無かったものですから、それは余計な処置です。これを過剰治療と言います。つまり、過剰診断の多くは過剰治療に繋がる可能性があります。
また、過剰診断であるが、手術などの処置をしなかった場合(経過観察)も、心理的な負担が当然かかりますし、それだけでは無く、通院や検査などに伴う経済的負担も生じます。ケアする家族の負担もあるでしょう。
つまり、過剰診断が起こると、経過観察でも心理的金銭的な負担がかかるし、過剰治療もおこなわれた場合は、手術などによるダメージや後遺症が残る可能性がある訳です。しかも、過剰診断ですから、見つけた事によるメリット自体がありません。
偶発症(併発症)
検診に伴う検査や手術には、それによる意図しない害が起こり得ます。たとえば、身体に針を刺して検査する穿刺では、出血や 意図しない箇所に穴を空けてしまう(穿孔)可能性がありますし、手術などでもそれは同様です。
このようなものは、処置中に意図されない偶然的な害という事で、偶発症と呼ばれます。また、必要な処置と同時に起こる害という意味で、併発症などとも言います。
胃カメラなどの検査や、手術を受けた事のあるかたなら、検査や手術に伴うデメリットを、書面や口頭で説明されたのを憶えておられるでしょう。そこでは、出血や穿孔などの起こる頻度、起こった場合の危険性などが解説されています。そして受ける側は、その文面を読み、署名した上で、処置が実施されます。
検診に関わる組織による解説の実際
知っておきたいがん検診 ※日本医師会のサイト
国立がん研究センター中央病院 (東京都 築地)
一般社団法人 日本消化器がん検診学会 JSGCS
がん検診(胃がん・大腸がん)Q&A|検診Q&A|一般の皆様|一般社団法人 日本消化器がん検診学会 JSGCS
国立がん研究センター がん情報サービス トップページ
がん検診について:[国立がん研究センター がん情報サービス]
日本対がん協会
教科書における記述の実際
※大概の疫学や公衆衛生学の教科書ではスクリーニングの解説があり、そこでは偽陽性と偽陰性が説明されている
基本からわかる 看護疫学入門 第2版
- 偶発症(
事故のリスク
) - 検査による被ばく
- 偽陰性
- ネガティブなラベリング効果(
負のラベリング効果
)
臨床疫学―EBM実践のための必須知識 ※参照は初版
- 偶発症
- ネガティブなラベリング効果(
負のラベリング効果
):マンモグラフィによるネガティブなラベリング効果の研究を紹介
今日の疫学
ロスマンの疫学―科学的思考への誘い
まとめ
このように、検診を研究したり推進したりする組織のWEBサイトや、検診の基盤である学問の教科書では、検診に伴う害あるいはデメリットが説明してあります。検診は、これらデメリットと、得られるメリット(死亡する人を減らせるか、など)とを勘案して、どのような人々におこなうかや、推奨の程度が決められます。科学的根拠に基づくがん検診推進のページ では、各種検診のメリットデメリットを定量的に評価し、推奨のグレードが決められて、ガイドラインが作成されていますので、参照を勧めます。
検診について議論をおこなうならば、最低でも、これらのデメリットがある事、専門家もそれを認識している事、をまず押さえておくべきであると言えます。その上で、メリットデメリットがどの程度だと評価されているか、などを検討していく事が肝要です。
その意味で、検診自体には害はあるはずはない
などと主張してしまうのは、議論のスタートラインに立ててすらいない、と言えるでしょう。
*1:余談:私はこの文脈で陰性・陽性を訳語に用いるべきでは無い、と思っています