理解してもらう気が無い――検診の有効性議論とニセ科学議論

検診周りの議論。

↑このような指摘に対し、菊池さんは、

別に詰めるとかそういう気はなくて、ギャラリーに読んでもらいたいだけですから。「甲状腺検査賛成派の持ち出す理屈はおかしい」ということがギャラリーに伝わればいいんですよ。アガペーな人を論破したって僕にはなんのメリットもないし、論破されないでしょ、無敵だから。いいんですよ

↑こう返しています。指摘なさったかたは、

私は、過剰診断に理解を得られるように、ひとつひとつ論理的に段階を進めていく…と言う意味で言ってるのだけど、

↑と書いておられます。

まず、何らかの信念を強固に形成した人に対し、いくら丁寧に理詰めで説明しても、理解してもらうのは難しい、というのはあります。いわゆるニセ科学の議論でもそうですが、言説なり主張なりを強く信じ込んでいる人を相手に、その信念を解体させるべく説得するのは困難である、とはしばしば言われる所です。信頼関係も築けていない人に、WEB上で説明を試みて考えを覆させるのは、心理的社会的要因を鑑みても、難しい所でしょう。それを念頭に置くのは重要だと、私も思います。尤も、菊池さんはそういう対象をアガペーな人と表現していて、いくらか揶揄的にも見えますが(ニセ科学の議論では、信者などと表現する人もいます)。

しかし、その事を踏まえても、そういう対象の主張に言及したり引用したりして説明するのであれば、段階を踏む事を怠ったり、結論めいた事以外を書かない、つまり、端折るべきでは無いと考えます。

そもそも、ギャラリーに読んでもらいたいだけとの狙いを持ちつつ言及している訳です。であるのに、アガペーな人の言っている事に言及したり引き合いに出して説明しています。

彼(または彼女)に理解してもらおうなんてことは全く考えてません。

↑このように言い、かつ、

そうじゃなくて、ギャラリーに甲状腺検査問題を伝えたいわけです。
と書いている訳です。つまり、

言及や引き合いに出して端折った説明をしつつ、ギャラリーに伝えたい

との動機です。これだと、WEB上の議論であるから結局、

ギャラリーに見えるのは端折った説明

となります。

もし、ギャラリーに伝えたいのなら、ギャラリーに対して丁寧に説明する事を目指せば良いのであって、敢えてアガペーな人の主張を引き合いに出す必要は、どこにも無いでしょう。言及するからには、対象がどのように誤っていて、妥当な考えかたはどういうものであるのかを、しっかりと説明しておくべきです。

甲状腺がん検診の議論で言うと、検診の有効性が最も重要な論点の一つです。議論において、甲状腺がん検診は何故、有効で無いと言えるのかとの疑問が出るのは当然です。そこに対し、エビデンスは無いなどと言って説明を端折って、いったい誰が納得すると言うのでしょう。

ある疾病(がんなど)に対し検診をおこなって、見つけるのが早ければ早いほど良いのではないか、と考えるのは、直観的に正しく思われます。けれど実際にはそうで無かった事が、これまでの検診の研究から解ってきました。では、なぜ正しく無いのか。それをちゃんと説明せずに、エビデンス云々の話をしても、しかたがありません。

まず、ある検診可能(つまり、症状が出る前に発見可能)な疾病について、有効な処置(手術なり)があるとします。それが無ければ、いくら早く見つけた所でしょうが無いので、これは基本の前提です。そして、その処置が有効となるか無効となるかを分ける時点があると考えます。それを、クリティカル・ポイント(臨界時点)と言います。がんであれば、転移などのタイミングが、その時に存在する処置の有効無効を分けると考えられます(がんによって、転移が重大かは変わるでしょう)。

つまり、対象の疾病に検診(無症状で発見)をして、それが有効であるためには、

  • 処置が存在する事
  • 処置の有効無効を分ける時点(クリティカル・ポイント)が無症状の期間にある事
  • 検診でクリティカル・ポイント前に捉えられる事

などの条件が必要となります。もう少し詳しい説明は↓

interdisciplinary.hateblo.jp

検診の有効性議論にあたって、クリティカル・ポイント概念の把握は、理解の分水嶺であると、私は考えています。直観的に、介入(無症状で発見し処置)は早ければ早いほど良いと認識している所で、実はそうで無い事を捉えるのは重要です。言いかたを変えると、検診の議論を知らない人は、クリティカル・ポイントが数え切れないほど存在していると直観している、とも言えます。

実は私自身、検診の議論を勉強している時に、どうしても、介入は早いほど良いとの直観を取り払う事が出来ませんでした。頭の中に、右上がりのグラフ的なものを描いて、それが早く途切れるに越した事は無い、というような図式を描いていたのです。そこに、クリティカル・ポイントの概念を紹介している本を見かけ、なるほどそういう事か、と得心したのです。
ちなみに、クリティカル・ポイントの概念を説明していた本は↓

疫学 -医学的研究と実践のサイエンス-

疫学 -医学的研究と実践のサイエンス-

  • 作者:Leon Gordis
  • 発売日: 2010/06/01
  • メディア: 単行本

クリティカル・ポイントの語、いわゆる疫学の教科書を見ても、ほぼ出てきません。英語で書かれた検診の文献を漁れば幾らか見かける、くらいなので、そもそもそのような概念が設定されている事に気づきにくいのです。ですから、この概念を用いて検診の説明をするもの自体が、そんなにありません。まして、福島の甲状腺がん検診における議論で持ち出すのは、ほぼ見当たらないと言って良いでしょう(おそらく、明確に採用し出したのは私)。参考:日本語のブログでクリティカル・ポイントを説明に使っている少ない例の一つ(薬剤師の青島周一氏による)⇒Blogger版 地域医療の見え方: 病気の早期発見と5年生存率

クリティカル・ポイントは、とても重要でではありますが、それはあくまで、仮想的・概念的なものです。直接観察できるような性質のものではありません。だから、ここまでの説明を見ても、確かにそうかも知れないが……と思われたかたもあるでしょう。また、それがあったとして、じゃあどうやって有効性を調べるか、との疑問も湧くはずです。

検診の有効性は、理想的にはよくデザインされ上手く実行されたRCTによって確かめられます。つまり、

  • 同じような集団を用意
  • いっぽうに検診する
  • いっぽうに検診しない
  • 長期間観察する
  • 対象の病気で死亡する度合いを調べる
  • 死亡する度合いの違いを測る

このようなプロセスを踏み、最後の死亡する度合いの違いを測って、それを検診の有効性の指標として用います。全く同じ集団は用意出来ないので、似たような集団を用意して(各集団に確率的に割り付ける操作によって、それを確保する)、検診する/しない で分けて、対象の病気による死亡という結果の違いを見るのです。もちろん、人間対象の研究なので、

  • ちゃんと似たような集団に分けられる(因果推論の前提)
  • それぞれの集団で、検診を受ける/受けない 事が守られる(アドヒアランス
  • 長期間フォローアップする

上記のような条件が備わる事が重要です。そして、それはとても難しいものです。少し考えても、検診を受けてくださいと言って守られるとは限らない(もちろん、受けないでくださいという集団でも一緒)事は、想像出来るでしょう。また、介入を受ける受けないで分けられるので、どちらかに強い利益か害がある場合に、倫理的問題になってきます(どちらでも臨床研究は中止しなければならない)。ですから、RCTによる検診の研究はあっても、そのRCT自体が方法的に妥当か、といった議論も出てきます(前立腺がん検診の議論など)。

このような、RCTによる検討が、良くデザイン・実施されていれば、強い直接的証拠として採用されます。それが無ければ、時系列的に検診の程度と死亡割合の推移を検討したり、様々な国で同じような傾向があるかを評価する事で、間接的証拠と看做します。

これらを踏まえて、甲状腺がん検診に関しては、

  • RCTによる直接的な証拠は存在しない
  • 時系列的な検討、様々な国での同様な検討によって、有効性は無い(あってもごくわずか)であろうとの強い間接的な証拠――強いは証拠の安定性を指し、間接的は因果関係へ踏み込めるかどうかを指すがある

との知見が得られています。もちろん、これは成人における検診の検討であり(そもそも若年者に対する がん検診をおこなう事はほとんど無いので、データも得にくい)、そこから補外(ある範囲で得られた知見を、他の範囲にまで一般化する)し、若年者にも検診の効果は無いであろう事が示唆されます。

どうでしょう。ここまで読んで、何と長ったらしい、面倒くさい説明がなされていると感ぜられませんでしたか? 実際その通りで、検診の有効性に関する議論は、こういう、長く面倒な説明をしなければ解らないような事を把握しておかなければ、そもそも理解出来ないものなのです。これでも全く足りないくらいです。

検診の有効性議論には、こういった科学的(分野的には専ら疫学的)背景があります。だから、ほんとうに問題を理解してもらうには、それを一々、面倒でも説明し続けなくてはなりません。そこを端折って、ただエビデンスが無いと言うだけでは、納得は得られません。せいぜい、元々知っている人が、まあそうだよね、となるか、何となく甲状腺がんは有効で無いと直観している人の信念を強化する、に過ぎないのではないでしょうか。それは、ギャラリーに甲状腺検査問題を伝えたいという目的には程遠いと考えます――伝えるが、問題の持つ論理構造を正確に把握してもらう、のを意味するのならば。

先にも書きましたが、いくら言っても理解してくれないであろう人の主張を引き合いに出して説明するのであっても、そこで詳細や段階を端折れば、ギャラリーに対しても説明を端折るのだから、アガペーな人がどうこうも、関係無くなるでしょう。いったいそれで、誰の(きちんと理解した上での)納得を得られると言うのでしょうか。

説明を諦める場合があるのは解ります。これはどう言ったって理解されるのは難しいだろうな……となるのは私にもあります。けれど、言及して説明するからには丁寧にやるべきでしょう(説明の際の言葉遣い等はまた別問題ですが)。それに、検診の議論の中でも、色々の見かたはあるので、相容れない立場の人からの指摘の中に、あれ、ここはどう考えるべきか……とか、そういえばこの部分についての知見はどういうものがあったっけ……となる場合はあります。私はそういうのを見つけると、教科書や論文を調べて、知見を補充したり説明に付け加えたりします。そういう意味で、異なる主張を持つ人の発言からも、勉強する事がよくあります。この視点は足りなかったな、と未だになりますし(はてなブックマークや、このブログで記録しています)。他のギャラリーにも同じように思う人はいるはずで、そう思うギャラリーがいる中で、有効性を示すエビデンスは無い、とただ言った所で、理解は得られないでしょう。

加えて言えば、菊池さんは、がん検診の有効性の議論を、詳細に説明する事がありません。有効性とはなにで、どんな指標を用い、どのような研究デザインでもって評価するのか、などの解説もしません。福島の甲状腺がん検診については、過剰診断の害を強調するばかりです。検診の実施の是非は、効果と害のバランスによって決めるべきで、本質的に、効果(厳密には有効性や効果、効能は別概念ですから、分けたほうが良い場合があります)の議論が最も重要です。何故なら、検診に害があっても、効果もあれば実施は正当化され得るからです。いずれも程度の問題であって、それをきちんと検討しなければなりません。

私は、ニセ科学の議論の時から、

  • いくら懇切丁寧に説明しても、理解されるとは限らない
  • 理解されるのが難しそうな相手でも、説明を工夫する事で解ってもらえるかも知れない

この両方を踏まえておくべきだと考えてきましたし、今もそう思っています。同じ話題について、少しずつ説明のアプローチを変えて書いたり、分量を減らしたり増やしたり、リストでまとめたり、色々なやりかたをしておいて良いでしょう。けれど、エビデンスは無いみたいに端折るべきではありません。エビデンスの語も、ちゃんと理解されにくいものですからね。適当に出したら、じゃあエビデンスって何だ、のように返されるでしょう(返すのは尤もです)。それに対してはきちんと説明出来るべきだし、(くどいと思われようが)一緒に説明しておくべきでしょう。