検診などの医療介入における《便益と害の両立》
胸単での肺癌検診は兎も角(適切な方法でないと効果が明確でない)、一定の年齢層に対する前立腺癌、乳癌の検診はその有効性がほぼ確立しており、これらの検診で救われた人は少なくありません。漠然とした物言いで、これらの検診が有害であるかのような情報を流すのは、厳に慎むべき事だと思います。 https://t.co/AccPy1hQnl
— 米山 隆一 (@RyuichiYoneyama) 2022年5月23日
これは、医師の室月氏による、がん検診で生ずる余剰発見(過剰診断)への注意喚起に対し反論したものですが、注目すべき箇所を引用します。
これらの検診が有害であるかのような情報を流すのは
↑米山氏は、がん検診が有害であるかのような主張をいたずらにする事を批判しています。米山氏の指摘には一理あり、室月氏の主張も、検診の害をいたずらに強調するもので好ましく無いと思いますが*1、米山氏の物言いも話を単純にし過ぎています。
検診に限らず医療介入は、ほぼ便益と害の両方が生じます。害の全く無い介入は、仮想は出来ても実際的には考えにくいでしょう。また、超音波検査のように、単独では侵襲がほぼ無く安全なものはあっても、それが検診なるプロセスに組み込まれた場合、着目する介入は検診となります。それを考えると、介入を評価するに際して
有害かそうで無いか
の観点で見るのは、的を外していると言えます。もしその2値的な判断をするのなら、
ほとんどの医療介入は有害
と言える(言えてしまう)のですから。したがって、米山氏の検診が有害であるかのような
との発言に対しては、それに乗ってシンプルに、
どんな検診でも有害である
と返せる訳です。でも、そういうやり取りをしたってあまり意味が無いでしょう。
私が検診の説明で散々言及しているように、こういうのは、程度の問題なのです。これくらいの数の人に検診をしたら、これだけの人の命が助かって、これだけの数の害が生じた、じゃあそれがどのくらい同士なら推奨出来るのか、と考えていくのです。
介入は便益と害が両立します。試しに、単純に益と害の語を両方使って検診の事を説明すると、
がん検診は有益だし有害です
のようになります。このような表現に違和感を覚えるかどうかが、検診の話をスムーズに進められるかの1つのポイントであると思います。違和感を覚える人は、害があってはならないと考えているか、便益と害は両立しないものと考えているか、いずれかだと思われます。
なぜ医療介入で、便益と害が両立するかと言うと、
- 個別例で便益と害が両立するから
- 個人では両立しなくても集団で評価するから
この2つの観点があります。前者については、ワクチンで考えると解りやすいでしょう。ワクチンは、対象の感染症での症状を抑えたり死亡を防いだりします。これが便益。しかし、それと同時に、発熱や痛みや倦怠感などの副反応という害も生じます。ですから、個人レベルで便益と害が両立する。
いっぽう、個別で見れば、便益と害が両立し得ない場合もあります。たとえば、病気に対する手術で考えると、ものすごく難しい手術だが、成功したら死亡を免れる、しかし手術しなくても手術に失敗しても患者が死亡する、のような場合、便益は死亡の回避で、害は患者の死亡です。その場合、便益と害は両立しません。死んだが死ななかった、は有り得ません。
がん検診の余剰発見も同じです。余剰発見は、症状や死亡をもたらさない疾病の発見ですから、そこから論理的に、症状や死亡を減らすという便益と両立しません。その疾病によって症状や死亡が起きないので、それを防ぐ便益は必ずゼロだからです。
手術の場合は、片方が生じたらもう片方の可能性が消えるもので、余剰発見は、初めから便益が生じ得ないものに害を与えるものです。
これらは個人レベルで見ると、便益と害が両立し得ない場合ですが、集団を評価すれば両立します。たとえば、検診を何人かにおこなって、A氏は余剰発見されたがB氏とC氏は命が救われた、という場合には、1人に害が生じて2人は便益を得られた、と評価出来る訳です。害も便益も生じているから、その割合などの指標で比較しよう、という寸法です。
もちろん、B氏とC氏には、心理的負担や手術における侵襲や後遺症等の便益と両立する害も生じますが、それはまた別に評価します。
これまでを踏まえるなら、がん検診などの医療介入について、有害かどうかのような観点だけで評価するのは、見かたが極めて粗いものである、と解って頂けるでしょう。標語的に言えば、
有害な事は無益や無用であるのを意味しない
とでもなるでしょうか。