《過剰診断という不利益が生じえる検査》は止めるべきか

はじめに

題で強調しているのは、下に引用する文に書かれていたものです。

福島の #甲状腺検査 は過剰診断という不利益が生じえる検査です。

この文章は、福島で実施されている甲状腺がん検診の実施に疑問を呈する流れで書かれています。つまり、甲状腺がん検診の再考、あるいはもっとはっきりと言えば、検診の実施に反対する理由として、

過剰診断という不利益が生じえる

事を挙げています。ここについて、その通りである、ともし思われたのであれば、ぜひともこれから書くものを読んだ上で、再考頂きたいと思います。

検診とは

おさらいです。検診とは、

症状が出ない内に病気を見つける

事を意味します。がんにしろ大動脈瘤にしろ、その病気を持っているが、それによる症状がまだ出ていない期間に、その病気を見つける、つまり診断をつけるのが検診です。だから、症状が出て医療機関を受診し病気が見つかるような場合は、検診には含めません。また、無症状の内に別の病気の検査の時に偶然見つかるとか、ついでに出来る検査をしたら見つかる、というケースは検診に含めます。症状があるかどうかが重要です。

過剰診断とは

過剰診断とは、

その病気による症状が出たり、その病気で死んだりしない、そういう病気を見つける

のを指します。症状が出ないものを見つけるのが必要なので、その病気の症状が出て見つかる場合は、過剰診断ではありません。

症状が出る前に病気を見つける事を検診と言うのでした。つまり過剰診断とは、

検診によって病気を見つけたが、その病気は症状や死亡の理由にはならない

のだと言えます。だから、検診をしなければ過剰診断は起こりません。

過剰診断の起こりかた

過剰診断は、症状や死亡の原因にならない病気を見つける事です。これは、

見つけた時点で過剰診断かどうかは判らない

のを意味します。なぜなら、その病気が、見つけてからしばらくしたら症状を出すような性質のものだとしても、その前に、別の病気や事故で死ぬかも知れないからです。若い内は病気で死ににくいといった傾向はあっても、起こらないと断定する事はできません。事故や災害は、環境や社会状況も関わって変化するものです。病気と診断された次の日に交通事故で死んでしまうような現象は起こります。

過剰診断が生じえる

ここまでを整理すると、

  • 症状が出る前に見つける事を検診と言う
  • 症状や死亡の原因にならない病気を見つけるのを過剰診断と言う
  • 過剰診断は検診で起こる
  • 過剰診断は、見つけた時点で判断できない

このようになります。そしてここから、

症状が出ていない内に発見する事が可能なら、あらゆる病気で過剰診断が生じえる

と言えます。症状が出ていない期間に見つける事が不可能なら、そもそも過剰診断は起こりません。検診が必ず失敗するからです。だから、少なくとも技術的に発見可能な必要があります。

そして、症状が出ていない内に発見したとして、そこから症状が出るまでのあいだに、その病気以外の原因で死亡すれば、過剰診断が成立します。そして、病気が見つかってから一定の期間は他の原因では絶対に死亡しない、などという事は決めようがありません。したがって、

症状が出ない内に見つけた場合、無症状のままその病気以外で死ぬ可能性は排除できない

と言えます。これに文を補って表現し直すと、

症状が出ない内に(検診で)見つけた場合、無症状のままその病気以外で死ぬ(過剰診断となる)可能性は排除できない

と書けます。当然、症状の出ない期間が存在し、その期間内に発見可能なあらゆる病気について成り立ちます。これはすなわち、

検診で発見出来るあらゆる病気について、過剰診断が生じえる

と表現できます。

何にでも成り立つ

いま書いたように、症状が出ない内に発見出来る病気であれば、あらゆる病気について過剰診断が生じえます。ここで最初に引用した文に戻ると、

福島の #甲状腺検査 は過剰診断という不利益が生じえる検査です。

このようです。つまり、特定の検診について、それの実施を再考すべき、あるいは反対すべき理由として上記引用文の内容を主張しています。そして、前節で導いたように、

検診で発見出来るあらゆる病気について、過剰診断が生じえる

のです。したがって、過剰診断が生じえるから甲状腺がん検診に反対するというような意見は、

あらゆる検診について成り立つ事を、特定の検診反対の理由として掲げている

のだと言えます。もしそれが検診の反対の理由となるのであれば、

あらゆる検診は、過剰診断が生じえるから止めるべき

と評価できてしまいます。何にでも成り立つ事を特定のものを批難する理由として挙げると、このような事態が起こるのです。

便益と害

手術でもワクチンでもそうですが、医療行為には、

  • 便益

が生じえます。便益は、命を救う事だったり身体機能を回復させたりで、害のほうは、出血や後遺症などといったものです。これは、個人で両立する場合もありますし、集団で評価して頻度を比較する事もあります。もちろん、害の最悪のものは、死亡です。手術が失敗して死亡する場合もありますし、稀な頻度ながら、血管造影検査などの検査でも死亡に至るケースがあります。

www.cent-hosp.pref.niigata.jp

5. 非常にまれですが、様々な処置を行っても病状・体質によっては約15万人に1人の確率で死亡する場合があります。

私も血管造影検査を受けた事がありますが、その際は、30万人に1人くらいの割合で死亡する可能性がある、と説明されました。このように、安全とされる検査であっても、死亡という最悪の副作用、つまり害が生じえる訳です。

もし、死亡なる害が生じえるものをやるべきで無いというのであれば、血管造影検査はおこなってはならない、と言えてしまいます。なにしろ死亡例は確認されているのですから。他には、胃内視鏡検査では、胃に穴が空く場合がある事が知られています(穿孔)。

www.jstage.jst.go.jp

上記論文では、消化器内視鏡における様々の併発症が調査されており、死亡例も報告されています。もし死亡が生じえるのを医療行為反対の根拠にできるのなら、消化器内視鏡はすべきで無い、と言えてしまいます。

比較

死亡が生じえるからすべきで無い、との意見を持ち出すと、およそあらゆる医療行為が否定できてしまいます。死亡例があるものは当然として、報告が無いものについても、起こらないとは言えないのであれば論拠となります。

これは、量的評価を無視しているから出てきます。どんな医療行為でも害が生じないとは言えないのですから、害が生じえるから反対、と量的の部分を無視した意見は、ほとんど何も言っていないに等しい訳です。重要なのは、

便益と害とを比較する

観点です。このくらいの人に実施するとこのくらいの便益が得られる、いっぽう害はこのくらいの割合で発生する、というような研究をおこなって、量的の比較をおこなってこそ、実施を推奨したり、あるいはそれに反対したりの根拠となるのです。

比較の難しさ

とはいえ、比較は難しいです。たとえば、この医療行為をn人に実施すればs人の命が助かる、とします。しかしd人はその行為の副作用等で死亡する、としましょう。この場合、救命できる人数と死亡する人数がどのくらいの比であればそれの実施や反対を決められますか? 簡単に答えは出せませんよね。100人助かっても1人が死ぬのであればそれはすべきで無い、と考える意見もあるかも知れませんし、100人助かるなら5人の死亡は許容される、との主張もあるかも知れません。

これはまだ、死亡回避vs死亡発生なので、同じ現象について比較しているという意味では解りやすいものです。では、検診だとどうでしょう。1000人に検診すれば1人助かるとして、検査自体では数十万人におこなわれければ死亡は発生しない、とします。しかし、検診では過剰診断が生じえるものです。では、救命1人に対して過剰診断が何人までなら、その検診は許容されますか? これは、死亡回避vs死亡発生、のような比較ではありません。過剰診断は当然、処置に繋がります。処置は手術や化学療法、放射線治療などですから、それが害を生ぜしめます。死亡に至らなくても、一生の投薬や後遺症を抱える場合もあります。全部が、受ける必要の無い害です。それを死亡回避と天秤にかけるのです。死亡回避の分銅と過剰診断発生の分銅、どのような重さを割り当てますか?

生じえるだけでは決められない

過剰診断が生じえるとは、いまの天秤のたとえを用いれば、

過剰診断側の皿に分銅が乗らないとは言えない

と主張しているに過ぎません。そしてそれは、あらゆる検診について主張出来るのでした。したがって、意見としては何も言っていないに等しい乱暴なものです。それが

具体的な検診に反対する根拠

とはなり得ません。重要なのは、

便益と害との比較衡量

です。それで便益が勝っていると判定できてはじめて検診は推奨できるし、あきらかに害のほうが大きいと言えれば検診反対の理由になります。まずこれが前提です。それを共有してやっと、

便益と害を重み付けして比較する

という具体的な、そして極めて難しい議論ができるのです。冒頭で紹介したような主張は、これらを全く踏まえていない、議論以前の段階に留まっているものだと言えるでしょう。