「斬れ味」と「斬り方」と「刀」と

ネットサーフィン(死語)をしていたら、こんな動画を目にしました。

これは、海外のナイフ等を扱うメーカーによる商品のプロモーション動画です。いわゆる日本刀状の武器で、様々な物を斬ってみせています。巻藁・ロープ・細い金属パイプ・豚肉(※丸々死体を使っているので、視聴時には注意して下さい)、等。なかなかの切れ味を披露してくれています。そして、切れ味もさる事ながら、その撓い具合も面白い。万力で固定して曲げたり、両端を持ってぶらさがっても曲がったり折れたりしていません。これは、職人が鍛錬した日本刀では簡単に実験するのは難しいでしょうし(大学の研究などではあるようですが)、興味深いものです。

ちなみに、このメーカーはその筋には知られた所のようで、町田さんが以前にエントリーで採り上げておられたのを教えて頂きました(既読だったけれどメーカーが同じだと認識していなかった)⇒日本と世界の日本刀概念のズレ - 火薬と鋼
この町田さんのエントリーは、海外と日本での「日本刀」に対するイメージや製法の違い、海外で「日本刀」と認識される武器が存外の切れ味を有する事などを紹介するもので、大変参考になります。

ここで、私が武器(つまり刀)の性能について考えている事を、少し書いてみます。

紹介した動画につけたブックマークでも書いたのですが、私は、刀という道具について、ある程度の水準の材料を用いて、ある程度の水準の切れ味が確保されており、そして道具としての耐久性が備わっていれば、「武器」としての実用性に鑑みて充分なのではないか、と考えています。その観点からすれば、現代の科学技術や工学に基づいた工業製品を積極的に用いるというのは、一つ合理的な方向性であると見ます。
科学技術の発展は著しく、材料科学も様々な知見を積み重ねている事でしょう。そういった知見から、伝統の製法によって鍛錬された日本刀に匹敵する、とまでは言わなくても、そこに接近する性能を持つ物を作れるのではないか、と考えるのも重要に思います。
たとえば、切れ味は及ばないが、武器としての強靭さはむしろ勝る、という場合もあるかも知れません。靭性2012/01/31追記:はてなブックマークで用語についてご批判を頂きました。きちんと専門概念を理解せずに不用意に使ってしまったのは全く私の落ち度ですので、修正します。ご指摘下さったid:agricola さんに感謝申し上げます。また、お読みの皆さんにお詫びいたします。尚、ここで表現したかったのは、「曲げられても折れにくく、元の状態に戻りやすい」という性質でしたが、実際、きちんと材料力学の言葉を用いて理論的に説明する事が出来ないままに用語を使ってしまいました。当該学問に携わる方々に対しても大変失礼な事を致しました。の高い材料を用いれば、それはすなわち折れにくい・曲がりにくい、という事になるので、それ自体が武器としての有効さを高める要因として働く文脈となる場合もあるだろうと思われます。

そういった、ある程度の品質が確保されたものが、大量生産によって安価で供給されるのであれば、それを新しいバリエーションの有用な武器として、選択肢の一つとして捉えるのも悪くは無いのではないでしょうか。ともすれば、「伝統」に拘りがちな事のある武術の世界ですが、時にはそのような革新性にも目を向けるのも良いでしょう*1

もちろん、ここで考えを進めるならば、「伝統的な製法で造られた物だからこそ可能」な運用、というものは、理論的にはあり得ます。職人にしろ芸術家にしろ一流スポーツ選手にしろ、道具の性能に神経を使う、というのはしばしばある事です。つまり、最上のパフォーマンスを発揮するには、それに見合ったレベルの道具が必要となる、という論理。
それは、道具の構造や、材料の物理学的特性等と、使用者の身体運動や認知が複雑に絡み合って形成されるものですから、用いる道具のごく微細な違いがパフォーマンスにダイレクトに影響する、というのは確かに有り得そうです。大工が使う鉋然り、書家が使う筆然り、スプリンターが使うシューズ然り。
ただ、注意しなくてはならないのは、そのような論理を重視するあまり、「特定の道具」を用いる事に「拘る」可能性もあるという所です。たとえば、どこそこで採られた○○という材料が一番だ、とか、天然の△△でなくてはしっくりこない、とか、そういうのはよく聞きますが、ともすれば、それが、新しい可能性を閉ざすかも知れない、という訳ですね。
よくあるのは、「天然の物」が良いという意見ですね。もちろんこれには合理的な理由も考えられます。つまり、科学技術がまだ天然物に追いついていない場合など。工業的な製法だとまだ伝統のものとは大きな差がある、とか、人造の材料は天然物には及ばない、とか。でも、そこにあまり執着して、「天然で無ければ」「伝統的で無ければ」となってしまうといけません。下手をすると、その「名前」だけに拘った机上の意見になりかねません。
柔軟な考えを持つ人は、この辺の事を弁えているでしょう。たとえば、伝統を重んずる職人が現代的な材料にも目を向けたり、一部に機械的な作業を積極的に採り入れたりする。また逆に、優秀な技術者や科学者は、伝統の業に未だ解明されていない重要なエッセンスは無いか、と考え追究する。そのような方向を目指すべきでしょう。

ちょっと話がずれましたが、要するに、伝統を重んずるのももちろん肝腎だが、それと同時に、現在発展している科学技術・工業の力も侮れない、という事ですね。一流の職人の業によって作られた逸品に追随出来るものが出来る可能性はある。

また、こういう考えも出来ます。つまり、工業製品に用いられるような材料や製法で作られた道具には、それならではの特徴というものがあるはずです。だから、理論的には、そのような武器に適した運用を開発するという方向性もあり得る。
刃物という武器について重要と思われる因子がいくつか挙げられるでしょう。たとえば次のように。

  • 切れ味
  • 折れにくさ・曲がりにくさ(曲がって元に戻るかどうか)
  • 重さ
  • 疲労のしやすさ
  • 錆びやすさ

等々。これらを別物として書きだしていますが、もちろん、それぞれの特徴は、材料力学的な論理によって関係し合っている事でしょう。そして、それらの条件が、具体的な道具の運用という文脈に関わってくる。
たとえば切れ味や重さは、敵のどの部分を狙うか、という事や、片手操法の仕方などに関係するでしょう。切れ味はそこそこで、軽く靭やかな刀であれば、剥き出しの肌を素早く斬りつけるというのがやりやすくなるが、片手操法では刃筋が安定せず斬りにくい、という事もあるかも知れません。
あるいは、折れにくさなどは、相手の武器に接しての受けの仕方に関わるでしょう。錆びやすさはもちろん、道具のメンテナンス性の問題と繋がります。
当然、これらの話は、既存の(伝統的な)日本刀のバリエーションと武術の体系の広がりとして既に考える事が出来る訳ですが、ここに、現代の材料等の観点を持ち込めば、更に合理的に追求出来る可能性も出てきます。
たとえば、鞘は通常は木製で、途轍も無い長い年月を経ての篩にかけられ残った材料が優秀な素材として用いられているのでしょうが、もしかすると、現在あるいは今後の材料科学と工業の発展によって、そういった伝統的な素材に匹敵もしくは凌駕する物が現れるかも知れません。
具体的に想像してみると、極めて錆びにくく折れにくい材料で刀身を作り、極めて摩擦係数の小さい材料で鞘を作る、とか。また、温度や湿度による変形に強い合成樹脂で成形したり、潤滑性の高い樹脂等を内側にコーティングしたりであるとか、そんな、メンテナンス性が高く抜刀に適した刀などもデザイン出来るでしょう。遣い手の志向に適した武器が現在の技術によって初めて出来る可能性もある、と考えるのは発想が過ぎるでしょうか。

工業製品と、職人の手による物との対比、という事だと、同じく刃物である包丁の話が解りやすい気がします。やはり鉄の包丁が良いとか、いや別の良い合金があるとか、メンテナンス性の良い包丁の方が使い勝手に優れるだろう、とかその辺の話。これは用途にもよるし、使う場所や頻度も関係するでしょう。伝統的だから、とか、新しいから、という風に単純化するのでは無く、ある目的について合理的であるか、という観点が重要に思います。

さて、動画の話に戻ります。
観て判るように、紹介されている日本刀状の刃物(以下、単に刀と称する)、なかなかの切れ味です。死体で静止した物体とはいえ、豚肉も結構簡単に両断出来ているようです。
しかし、これを武術的に考えてみると、ものすごく大振りでぶん回していますよね。ここに注目する必要があります。
もちろんこれは、使っている人の技倆が駄目とか、静止した物体を切る意味は無い、という話ではありません。刃物の性能として、何がどのように切断出来るか、というのはとても重要な因子ですし、よく切れる刃物といっても、めちゃくちゃに振り回せば誰でも自在に切れる、というものでも無いでしょう。だから、それはそれとして重要な情報として考えておく。けれども、武術として考えれば、うんと振りかぶってぶんと振り回す、という動きは、やはり隙が生じている、と見る事が出来る訳です。
ここで、前のエントリーで書いた抜刀の話 http://d.hatena.ne.jp/ublftbo/20120126/p1 に繋がってきます。
私はそのエントリーで、ぐっと後方に身体を捻って「溜め」たような構えを好ましく無いものとして紹介しました。これは、エントリーでは、鞘に納められているという拘束的な条件があるから、というのが主な理由でしたが、それと共に、仮に大振りで威力が高められたとしても、隙が出来てしまったのでは武技としての意味が無い、という事でもありました。当然それは、刀を抜いて対峙したシチュエーションでも共通する話な訳です。
つまり、いくら切れ味鋭いといっても、ぶん回したのでは、相手が無手ならともかく、こちらと同じように刀を持っているのであれば、命取りの隙が生じる。動画を観ると、大きく振りかぶってから正面なり袈裟なりに斬っていますが、あれは怖い。怖いというのは、「攻撃する側が危うい」という意味です。
刀は長くて鍔元まで刃が入っている刃物ですから、武術として考えれば、必ずしもその武器の持つ最大の威力を発揮しなくても充分という場合もあるかも知れません。また、「斬り方」自体が違ってくる、という場合もあるでしょう。要するに、「叩きつける」ように斬るのでは無く、「なでつける」ように、あるいは「寄りかかる」ように遣っていく。これは私が志向している運用の方向性ですが、まだ検討中のものでもあります。
ぶん回すような遣い方は、隙が出来ます。で、それ自体は誰でも解る話です。なのに敢えてそういう風にやるという事は、「そうする必要がある」と認識しているのを意味します。もしかするとこれは、道具の使い方という所についての心理的社会的なバイアスなのかも知れません。普通の現代の人間は、長大な刃物で人間を攻撃するという習慣は無いから、今の習慣のアナロジーなどを用いて補う訳ですね。そうすると、棒を振ったり、といった運動が思い浮かんだりするのでしょう。そしてそれを採用する。結果的には、「確かに切れる」となる。
でももしかすると、別の合理的な方法があるかも知れません。「刺身を切るように」刀で斬る、という事も出来るかも知れない訳です。

それから、先に、静止した豚肉を切る、という話をして、それは切れ味の確認の意味では有意義、と書きましたが、実際問題としては、静止している物体と移動している物体を切るのとは、物理学的な条件としては相当違うものと思われます。まして、武術として考える情況は、意思を持って運動する人間を相手にするというものです。衣服等もあり、人体の構造は全く一様では無いから、それを攻撃するというのはやはり、様々な条件が絡んだ複雑な現象です。そういう事も考えておく必要があります。それには、経験的に蓄積されてきたもの、つまり、経験談であったり文献であったり、古来伝承されてきた武術の型であったり、というものだけでは無く、科学や工学といった知の体系をも総動員していかなければ解明出来ない代物でしょう。
私自身は、そういう部分も考えて、先に書いたように、ぶん回すのでは無くて、「纏わりつく」ような運用が合理的ではないかと考えています。これは、高岡英夫氏の宮本武蔵解釈などに触れてそのような認識に至ったものですが、大部分は想像です。なにしろ実験的な検討が異様に難しい分野ですから。
そして、ともすれば、この種の想像というのは、調子に乗りすぎて「空想」、もっと行くと「妄想」になる危険性を孕んでいます。武術や日本刀の技というのは、「浪漫」スイッチでもありますからね。出来る限り慎重に、多角的な視野でもって解明に当たらねばなりません。そして、ここら辺の、物の「切り方」と「切れ方」については、主に機械工学系の知見によって解かれる現象でしょうね。

これらの観点から考えて、動画のようなパフォーマンスは、確かに面白いけれども、「惜しい」と言えます。つまり、武器の性能を追求して、合理的な製法を目指し安価なものを提供する、という方向性はとても良いですが、武器技の高度の運用という面に必ずしも目が向いていない。ここら辺を総合的に考えていく事が出来れば、もっと興味深いものが見られるのではないかな、と思う訳であります。

*1:法的に所持しやすいか、とかはここでは措いておきます。