科学知識の社会学――バーンズやブルアの主張

先日、Kumicitさんが、ホメオパシー・占星術・創造論を科学にしたいSTS学者たち というエントリーを上げておられました。内容としてはタイトルの通りで、スティーブ・フラーのみならず、STSに携わる人達の幾人かが、ID論ホメオパシー占星術等を擁護している、というものです。
そこで名を挙げられている、B. バーンズとD. ブルアについては、科学哲学者の野家啓一氏の本によって、SSK(科学知識の社会学)の人として、かなりラディカルな主張をしている論者である、と紹介されていたのを憶えていましたので*1、その事をはてなブックマークのコメントに書きました。で、その野家氏の説明に興味がある方もいるかな、と思ったので尋ねた所、リクエストを頂きましたので、ここで引用してみます。なるべく流れを把握しやすいように、結構長めに引用してみましょう。

 クーン以後の科学社会学は「科学知識の社会学(Sociology of Scientific Knowledge)」、略して「SSK」と呼ばれることがある。これに対して、マートンの問題提起を受けて科学社会学を一つの学問領域として確立した「マートン学派(あるいはコロンビア学派)の研究は、クーン以前の科学社会学ないしは古典的科学社会学と呼ばれる。これは科学者の社会的な行動様式を制度的な観点から分析することを主たる目的としたという意味で、「科学者の社会学」と言うことができる。それに対して、1970年代から80年代にかけて勃興した新たな科学社会学は、社会的条件が科学者の行動のみならず、科学理論のあり方にも影響を及ぼすと考える点に特徴がある。この潮流は、イギリスのエディンバラ大学を拠点に活動したことから「エディンバラ学派」の名があり、代表的なメンバーとしては、B. バーンズ、D. ブルア、S. シェイピンなどを挙げることができる。彼らが提唱した「科学知識の社会学」こそ、クーン以後の科学社会学を代表するものである。
 科学知識の社会学は、ハンガリー社会学者K. マンハイム知識社会学が提起した「知識の存在被拘束性」というテーゼから大きな影響を受けている。これは、知識はそれが生み出される社会的基盤や時代状況によって拘束を受けている、というテーゼである。しかし、マンハイムが数学や自然科学の知識だけはこの拘束からはずし、例外扱いをしたのに対して、エディンバラ学派はこれらの知識もまた社会状況によって規定されている、と主張する。つまり、社会科学や人文科学の知識のみならず、自然科学や形式科学(数学、論理学)の概念や理論内容も社会的・時代的条件によって制約されている、と考えるのである。
 マンハイムのように自然科学や数学を特別扱いにし、他の知識については社会的拘束性を認める考え方を「ウィーク・プログラム」と呼ぶとすれば、エディンバラ学派のように自然科学を含めたすべての知識は社会的に規定されている、という考え方は、「ストロング・プログラム」と呼ぶことができる。特にブルアはこのストロング・プログラムを積極的に推し進め、「科学と知識は基本的に、宗教信者が聖なるものに対するのと同様に取り扱われる」(参考文献13-3*2)と主張して、科学史家や科学哲学者からの反発を招いた。しかし、彼の意図は科学知識と宗教的信仰とを同列に論じることにあったのではなく、デュルケームの宗教社会学と同じ方法論が科学社会学においても有効である、ということを示すことにあった。彼はそこから、科学社会学のストロング・プログラムと呼ばれる以下の四つの原則を導き出した。

(1)因果性(causality):科学的信念や知識を生み出す諸条件や利害関心に注目すること。
(2)不偏性(impartiality):真理と虚偽、合理と不合理、成功と失敗の双方を公平に扱うこと。つまり、これらの二分法のどちらに対しても説明が要求されねばならない。
(3)対称性(symmetry):説明様式が対称的であること。つまり、同じ型の原因で、たとえば正しい信念と間違った信念とを説明できなければならない。
(4)反射性(reflexivity):以上に述べたような説明パターンは、社会学自身にも適用可能であること。

 これだけでは理解しにくいので、一つの例を挙げてみよう。たとえば、飛行機事故が起こったとする。その際には事故調査委員会が組織され、事故(失敗)の原因が徹底的に究明されることであろう。しかし、飛行機が何の問題もなく飛んでいるときには、その順調な飛行(成功)の原因を究明する委員会が組織されることはありえない。それに対して、ストロング・プログラムは成功もまた失敗と同様にその原因が究明されるべきだ、と主張するのである。したがって、正しい信念や合理性は、誤った信念や非合理性とまったく同様に、科学社会学によって因果的に説明されるべき事柄ということになる。これまで数学や論理学は、経験科学と違って普遍妥当的に真であり、それが誤りになることはありえないと考えられてきた。しかし、ストロング・プログラムによれば、成功している数学や論理学でさえも、その成功の原因が究明されなくてはならない。言い換えれば、数学や論理学の知識といえども科学社会学的な説明を免れることはできないのである。
 ここからエディンバラ学派は、論理学や数学に対しても社会学的な分析を適用することを試み、たとえばブルアは「数学の社会学」と名づけるべき研究を展開した(参考文献13-3)。彼はそこにおいて、われわれが自明と見なしている自然数の存在に対して、「赤道」や「地軸」がわれわれの考案したフィクションであり、社会的に構成されたものであるのと同様に、「数」もまた社会的な構成物としての側面をもつことを強調する。あるいは、未来永劫変わることがないと考えられている矛盾律同一律などの論理法則に対してさえも、それを論理的に正当化しようとすれば無限後退か循環論法に陥ることを指摘し、「論理学の権威は道徳的で社会的なものであり、社会学的な探究と説明にふさわしい」と主張するのである。
 このようにして、科学社会学の中でも「ストロング・プログラム」の潮流の問題提起は次第にラディカルになっていき、数学や論理学の知識でさえも社会的・文化的に規定されたものにほかならない。という方向へ突き進んでいく。これは、科学知識はすべて社会状況や時代状況に拘束され、それらに対して相対的なものである、という認識論的相対主義を帰結することになり、批判もまたその点に集中したのである。
野家啓一『科学の哲学』(P136-139)

このような感じです。この野家氏の要約が妥当だとすれば、バーンズやブルアの主張の背景について、ある程度押さえる事が出来ると思われます。ちなみに補足すると、この本の著者である野家氏は、特に科学擁護の立場の論者ではありません。ここで引用した所のすぐ後の方では、ソーカルの行為(デタラメ論文の投稿)を苛烈に批難していますし、私が見た所、しばしば、科学そのものについて批判的な論を主張しているように思います(野家氏は、黒木玄さんや左巻健男さんに痛烈に批判された事がある⇒『「知」の欺瞞』関連情報 ※下の方の「サイエンス・ウォーズ論者達」の所を参照)。

Kumicitさんの一連のエントリーでも、SSKやストロング・プログラムの用語が出てきているので、ここで引用した文章を参照する事によって、ある程度、科学社会学まわりの議論の流れが把握出来、Kumicitさんのエントリー群を理解する助けになり、少しでも見通しが良くなれば、と思います。多分、「SSK」という語を初めて見た人もいるでしょうし、そういう人にとっては、結構把握し辛いものがあるでしょうから。

*1:なので、STSの人、という認識は無かった

*2:引用者註:D. ブルア(佐々木力・古川安[訳])『数学の社会学