仲正昌樹氏による言及について
先日書いたエントリー ポストモダンにおける、自然科学概念を用いた比喩、の意義とは - Interdisciplinary について、仲正氏から言及がありました。
私の文章に対して、ツイッター上で「噴飯!」などと豪語していたハンドル名「ublftbo」という人物が、自分のブログに「ポストモダンにおける、自然科学概念を用いた比喩、の意義とは」という文章を書き、そこに『「知」の欺瞞』の一章の一部をコピペして紹介している――これを読むと、この人物が、批判されている側の元のテクストはほとんど読んでいないか、そのテーマが何かさえ理解していないらしいことが伺える。その文章に対して、こいつのお友達らしい「甕星亭主人」という人物が、「焚けよ坑めよ、と迄は云わんでもうんざりする話。 おまいら、ゲーデル判って引き合いに出してるんか、と数学史家が憤慨してる文章を何処かで読んだな。 根本原理を把み従って森羅万象を解き明かせるんだ、と引き札口コミ全面展開する教祖様の如く、権威として振舞い度いが為に…」という調子の、到底常人とは思えないコメントをしている。この錯乱の極みのような文章は、「タオ物理学なる妄想解釈が、其れで何か新しい事が解明出来たんか?と罵られて霜の様に霧散した先例も有ったな。」、と締めくくられているが、この連中は、カプラとラカンやデリダが思想的に同系列だと信じているのだろうか。そう信じているとしたら、話にならない。
ソーカル教にすがりついてしまう廃人たち 仲正昌樹【第23回】 – 月刊極北
私が書いた、仲正氏が言及しているエントリーを読めば解りますが(それほど長い文ではありませんので、読み取るのは容易です)、私は、仲正氏による、比喩として借用しているだけ
という論について、ソーカルとブリクモンがどのように考察しているか、を紹介しています。その表現がポストモダン論者の論や思想においてどのような位置づけであるか、という具体的な部分には触れていません。それとは別の話として、ポストモダン論者達が敢えて読者に馴染みの無い分野の表現を用いた比喩を使った理由とは一体何なのか、と問うている訳です。実際、なぜそんな事をしたのだと、仲正氏は考えておられるのでしょう。前回のエントリーで書いた事を再録します。
仲正氏は、ソーカルのおこなった事をトリビアルだと評しますが、では何故、ラカンやクリステヴァといった論者は、自然科学や数学などの専門分野の用語を比喩に用いたのか、また、それを、全体の論旨とは関わらない些末な事と言えるのはどうしてか、と問われた時に、果たしてどのように応えるでしょうか。
どうも仲正氏は、当該領域に関する知識の多寡について拘っているようですが、私はそもそも、そういう事とはあまり関わりの無い部分を話題にしています。誰が思想史上でどのような位置づけであるとか、誰が誰の系譜であるとか、そういう所を知らずとも議論出来る話です。
次に、こいつのお友達らしい「甕星亭主人」という人物
という部分についてですが、これは完全に間違っています。私はこの方(甕星亭主人 氏)からコメントをもらった時、この方はどなただったか、と思ってコメントを検索したくらいですし、頂いたコメントの意味がさっぱり解らないので、レスもしていません。仲正氏の仰る友達というのは単純に誤りですから、勘違いであったと撤回なさる方が良いと思います。そもそも、何をどう解釈したら友達という見方が出来るのか、私には全く見当もつきませんでしたが。
そういう訳ですので、もし、この連中は、カプラとラカンやデリダが思想的に同系列だと信じているのだろうか。そう信じているとしたら、話にならない。
のこの連中という所に私も入れているのなら、それも間違っています。カプラの事など話にも出していないですし。
それから、ご自身はポストモダンなどの概念の内容やその用い方についてかなり拘っておられるのに、論考する対象についてはソーカル教
と呼ばわる。自分に対する批判者をこのように雑に括って表現するというのは、どのような理由からでしょうか。まともに取り合うほどでも無い論者はそのような表現で構わない、といった所でしょうか。
ともあれ、仲正氏の文には、憶測に基づいた物言いがいくつもありますね。それであれだけ長文を書くのであれば、まずはっきりした事実に基づいて簡潔に言及すればよろしいのに、と思います。