EBM
産科医の室月淳氏が、twitterで次のような発言をなさっていました。
どの検査が適切であり,結果が陽性だった場合どの程度確からしさが増すか,陰性だったときはどの程度否定できるか,いままで医者は臨床のなかで経験的に身につけてきました.しかしあたらしい診断学ではこの過程が数学モデル化されており,これがエビデンスベイストメディシン(EBM)といわれるものです
— 室月淳Jun Murotsuki@集英社新書「出生前診断の現場から」 (@junmurot) 2020年9月12日
.しかしあたらしい診断学ではこの過程が数学モデル化されており,これがエビデンスベイストメディシン(EBM)といわれるものです
端的に言って、この説明は誤っています。
このように、これが○○であるといった表現をおこなう場合は、それ以前の文章が、○○なる語が持つ特徴を上手く要約している事が必要です。で、上記引用部においてそれは、
あたらしい診断学ではこの過程が数学モデル化されており,これがエビデンスベイストメディシン(EBM)
このようです。つまり、EBMなるものは、それまで経験的におこなわれてきた臨床の過程を数学モデル化
したものである、という訳です。しかるにこれは、EBMの説明としては、大きく的を外していると言えます。
では、EBM概念が出てきた分野である疫学のテキストでは、どのように説明されているでしょうか。いくつか引用してみましょう。
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- 作者:Sackett,David L.,Rosenberg,William,Richardson,W.Scott,Haynes,R.Brian
- 発売日: 1999/03/01
- メディア: 単行本
根拠に基づく医療(evidence-based medicine)は,個々の患者の医療判断の決定に,最新で最善の根拠を良心的かつ明確に,思慮深く利用することである。
根拠に基づく医療の実践とは,個人の臨床的専門技能(clinical expertise)と,体系的研究から現在利用可能な,外部の臨床的根拠(external clinical evidence)とを統合することを意味する。
共にP2より引用。
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- 作者:カール・ヘネガン,ダグラス・バデノック
- 発売日: 2007/04/04
- メディア: 単行本
根拠に基づく医療(EBM)とは,「一人ひとりの患者の臨床判断にあたって,現今の最良の証拠を,一貫性をもった,明示的かつ妥当性のある用い方をすること」である.
P1より引用。なお、この箇所は、下記文献よりの引用。
Evidence based medicine is the conscientious, explicit, and judicious use of current best evidence in making decisions about the care of individual patients.
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- 作者:フレッチャー,ロバート・H.,フレッチャー,スーザン・W.
- 発売日: 2006/10/01
- メディア: 単行本
根拠に基づいた医療(evidence-based medhicine:EBM)は,臨床疫学を患者の診療に応用することを意味する最近の用語である。これには臨床上の疑問を定式化し,それらの疑問に関する最も的確な臨床研究を選択し,その情報が臨床決断のエビデンスにしてよいほど信頼できるものかどうかを吟味し,そして実際にその情報を患者に適用するという一連の作業が含まれる。
強調は原文通り。P3より引用。
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これらの説明を見ると解るように、EBM(臨床的根拠に基づいた医療)とは、個々の臨床にあたり、その時点で得られている最新で最良の臨床的根拠を適切に適用するという、一連のプロセスを指す語である、と言えます。そして、そこでの臨床的根拠は何か、どのようなものを良質な根拠であると評価するか、といった所を議論していく訳です。
ここまでを踏まえて、再度、室月氏の説明を見てみます(少し長めに採ります)。
,いままで医者は臨床のなかで経験的に身につけてきました.しかしあたらしい診断学ではこの過程が数学モデル化されており,これがエビデンスベイストメディシン(EBM)といわれるものです
これは明らかに、サケットやガイアットが提唱した意味でのEBMを、適切に説明していません。先に見たように、EBMとは、その時点で得られた最新・最良の臨床的根拠を個々の患者に適切に適用していくプロセスです。しかるに、室月氏の説明は、数学モデル化という所に着目しているに過ぎません。これでは、根拠の質を検討する際に考慮される部分ではあっても、臨床的方法の一連のプロセスであるという事を、全く説明出来ていません。
オッズとオッズ比
また室月氏は、感度や特異度などに関係する指標について、次のように説明します。
検査の感度特異度から固有の尤度比が導かれます.検査陽性のときは,うたがい疾患の事前確率(正確にはオッズ比)に陽性尤度比を乗じてその事後確率が求め,逆に陰性のときは陰性尤度比をかけます.新型コロナ感染で,対象者の事前確率やPCR検査の感度特異度がくりかえし問題とされるのはそのためです
— 室月淳Jun Murotsuki@集英社新書「出生前診断の現場から」 (@junmurot) 2020年9月12日
.検査陽性のときは,うたがい疾患の事前確率(正確にはオッズ比)に陽性尤度比を乗じてその事後確率が求め,逆に陰性のときは陰性尤度比をかけます.
(原文ママ)この部分も間違っています。
いま考えているのは、検査を実施して陽性になった後の、病気を持っている確からしさです。計算のしかたは、
こうです(を陽性尤度比と言います)。ここで、
この2つの量を見ると、起こる割合を起こらない割合で割るものとなっています(後者は、陽性全体を分母とした時の病気の人の割合から考える)。つまり比です。割合を確率と読み替えると、
起こる確率と起こらない確率の比
と言えます。そして、確率の用語では、このような概念をオッズと呼びます。
室月氏の発言を再び見ます。
.検査陽性のときは,うたがい疾患の事前確率(正確にはオッズ比)に陽性尤度比を乗じてその事後確率が求め,逆に陰性のときは陰性尤度比をかけます.
強調を施した部分をご覧ください。オッズ比と書いています。私はすぐ上で、オッズとは
起こる確率と起こらない確率の比
の事であると説明しました。そして室月氏は、オッズ比と書いています。これで、
を指している訳です。ここが間違いです。
オッズとは、ある事象について、起こる確率と起こらない確率との比です。だからオッズ比は、そのまま、
起こる確率と起こらない確率の比と、起こる確率と起こらない確率の比、との比
の事を指します。要するに、オッズとオッズ比は別物なのです。
オッズ比は、疫学における症例-対照研究などで用いられる指標です。たとえば、喫煙と肺がんとの関連を論ずる場合、肺がん患者とそれ以外とにそれぞれ着目し、
上記2つのオッズを計算し、この2つのオッズの比、つまり
との比、を取ります。これが(曝露の)オッズ比です。
結局、室月氏は、オッズとオッズ比という別の指標(後者は前者同士の比)を混同して、正確にはオッズ比
と書いているのです。
オッズ比の語を見たままで考えると、オッズという比(比の一種であるオッズ)と捉えそうにもなりますが、実際に、オッズという比と、オッズという比、の比を取った指標があり、それをこそオッズ比と呼ぶのですから、このような誤記はすべきではありません。