《リスク》の見かた

↑これは、名取宏さんが、福島での甲状腺がん検診について疑問を呈しているかたに対し説明をなさっている所です。

説明されたかたがどのように理解したか、という具体的の話はここでは措いて、検診や疫学・公衆衛生学の議論に明るく無い人は、おそらくここに引っかかるであろう所に着目します。

、もともと甲状腺がん死亡率は小さいので、検診から得られる利益も小さいです。

↑この部分です。

死亡率が小さいとは、人口における、その疾患によって死亡する人の率を指します。指標としては割合の場合もありますので、以降は割合で話します。分母は、その疾患に罹っていない人も含む人口です。名取さんがおっしゃっているのは、そもそも人口を分母にした場合の甲状腺がんによって死亡する人の割合は小さいので、もし検診が効果をもたらしたとしても、人口において甲状腺がんで亡くなる人を減らせる程度は、どうしても大きくならないという意味合いの事です。

名取さんの説明は正しく、疫学や公衆衛生学的に妥当なものです。ところが、おそらくそのあたりに明るく無い人は、次のように考える場合があります。

たとえ少ないとしても、それによって救われるのであれば意義がある

といったように。

もう少し詳しくすると、確かに数自体は少ないのかも知れないが、それによっていくらかでも亡くなる人が減るのであれば、その検診はおこなったほうが良いのではないかといったようなものです。これはどちらかと言うと、相対リスク減少に、より着目した意見なのかも知れません。相対リスクというのは、介入した場合とそうで無い場合の割合の比です。たとえば、ある検診をしない場合の死亡割合と、検診をした場合の死亡割合との比を取ります。その結果、検診したら死亡数が半分になるとしたら、1-0.5で、リスクが半分に減ったと評価する訳です。それが相対リスク減少。

死亡割合は人口を分母とするものですが、それ同士の比を取ると、人口の規模と罹る人の大きさはオミットされます。たとえば、1万人中6人が亡くなる所を3人に減らすのと、100万人中6人が亡くなる所を3人に減らすのとで、指標としては同一になります。6人を3人に減らすから、どちらも0.5減らすと言えるからです。

いっぽう、何人中何人がを意識すると、別の指標が必要です。検診などの医療介入は当然、それにかかるリソースの量を考慮しなければなりません。ストレートに言うと、金も人も技術(科学技術とスキルを含めた意味)も必要です。その観点からすると、1万人の内3人の死亡を減らすのと、100万人中3人の死亡を減らすのとでは、社会的な意義が異なる訳です。医療が経済的な事と切り離せない以上、シビアですが、これはもう、現実として考えなくてはどうしようも無いものです。残念ながら、リソースは無尽蔵ではありません。

人口を基準にしたら、100万人中3人の死亡を減らすより、1万人中3人の死亡を減らすほうが、効果が大きいとみなせます。前者は100万分の3の死亡を減らしますが、後者は1万分の3減らせる、言い換えると、前者は1人を救うのに333333人に検診する必要があるのに対し、後者は3333人に検診すれば1人救えるからです。このように、人口を基準とした割合を見て、介入の有無で差を取るのを、絶対リスク減少と言います。そもそも、ある基準をとって累積の割合を求めるものをリスクと言います。そのリスクの大きさを意識したまま介入の効果を見るために、介入の有無でのを取る寸法です。

いっぽうは相対リスク減少に着目し、いっぽうは絶対リスク減少に着目して効果を論ずる。そうすると、話は噛み合わなくなるでしょう。後者は、減るとしても人口からしたら大きくなりようが無いからそれを実施する意義に乏しい、と言っているのに、前者は、減らせるのであればそれはやったほうが良い、というような意見だからです。

じっさい、検診の有効性を測る量は、絶対リスク減少のほうです。検診とはそもそもが、その病気だと診断されていない対象に集団的におこなう介入です。しかも、がんの場合、それに罹っている人の割合は小さく、何万人に1人くらいであるのが判っています。つまり、大半の人が罹っていないのを考慮しておこなうものです。それに大きな費用を投じて死亡を防ごうというのですから、人口に対する割合の差をもって評価するのが重要な訳です。たとえば、実際にそれが観察可能かは措いて、200万人に4人が亡くなるような病気を検診により2人まで減らせるとします。そのような検診を超大規模対象に実施する事が推奨されるか、というのは、心理的社会的経済的等の要因を加味しないと判断出来ません。

また、検診には、効果のみならず害も生じます。医療行為は一般的にそうでしょう。検診であれば、誤陽性誤陰性、侵襲による併発症や後遺症、そして、最悪の害である余剰発見があります。なぜ余剰発見が最悪かと言うと、発見後の対応に伴う全てのネガティブな事象を、被らなくて良い対象に被らせるからです。余剰発見は複合的な害に繋がる切っ掛けという意味です。

検診の有効性評価の厄介な所は、

  • 便益の生ずる対象と害を被る対象が同じ場合と異なる場合がある
  • 死亡vs死亡以外を比較する

所です。医療介入は、集団におこなって割合の違いを見出して評価せざるを得ません。検診の場合、それによって延命したり、QOLに良好な影響をもたらす割合が便益で、余剰発見等の生ずる割合が害です。また、延命される人は、延命という便益と、併発症や後遺症の害を一緒に受けます。要するに、死ぬまでの期間を延ばせるなら後遺症が生じても構わないとの心理的社会的価値観で評価する所がどうしてもあります。そこを反省的に考えて、指標をQOLにして評価する場合もあります。また、便益と害の比較において、死亡の割合vs余剰発見等の割合などの構図が描かれますが、その検討は一筋縄では行きません。たとえば、1人の死亡を回避出来るのならば、余剰発見は何人まで生ずるのを許容出来るかと問えば、そのむつかしさが解るでしょう。もちろん先ほどから言っているように、これには何人中という視点も関わります。

おそらく、とにかく減らせるかどうかを強く意識している人に、何人中何人の割合が減らせる(しか減らせない)という話をして解ってもらうのは、簡単では無いでしょう。かと言って、その部分の説明を疎かにして、ひたすら効果の小ささを強調しても、話にならないと思われます。その部分を解ってもらった上でたとえば、200万人に1人の死亡を減らせるのであれば1000人の余剰発見が生じても構わないし、そのためにリソースを割くべきだ、という意見を主張されたとしたら、それは、基本的な部分の知識を共有した上での見解の相違という事で、建設的な議論に至った結果であり、意義あるものとなります。そこまで至れば、議論は社会的や経済的の観点も含んできますし、また、そのものをどう捉えるかによります。ややこしい話に入っていきますが、色々を踏まえてそこまで来た、というのが重要です。

意見が割れるにしても、そこまでのプロセスを経てからにしたいものです。